3.一生成仏と広宣流布

(1)一生成仏

信心の根本的な目的は、私たち自身が仏の境涯を得ることです。
御本尊を信受して純真に自行化他の実践に励むなら、どのような人でも必ず一生のうちに成仏の境涯を得ることができるのです。これを「一生成仏」といいます。
自行化他の「自行」とは、自分自身が利益を受けるために修行すること。「化他」とは、他人に利益を受けさせるために教え導くことです。具体的には、勤行・唱題に励むとともに、仏法を語り、教え導く弘教の実践です。
日蓮大聖人は「法華経の行者は、如説修行せば、必ず一生の中に一人も残らず成仏すべし。譬えば、春夏、田を作るに、早晩あれども、一年の中には必ずこれを納む」(416㌻、通解──法華経の行者は、仏の説いた通りに修行するなら、必ず一生のうちに一人も残らず成仏することができる。譬えば、春、夏に田を作るのに、早く実る品種と遅く実る品種の違いがあっても、どちらも一年のうちには必ず収穫できるようなものである)と述べられています。
成仏とは、現在の自分と全く異なった特別な人間になるとか、死後に次の一生で現実世界を離れた浄土に生まれるなどということではありません。
御書には成仏の「成」について「成は開く義なり」(753㌻)とあります。成仏とは、自身の内に具わる仏の生命境涯(仏界)を開くことにほかなりません。
「凡夫」すなわち普通の人間である私たちが、その身のままで、自身に仏の生命境涯を開き顕せるのです。それゆえ、「凡夫成仏」とも、「即身成仏」ともいいます。
成仏とは、他の世界に行くことではなく、あくまでもこの現実世界において、何ものにも崩されない絶対的な幸福境涯を築くことをいうのです。
御書に「桜梅桃李の己己の当体を改めずして、無作三身と開見す」(784㌻、通解──桜、梅、桃、李がそれぞれの特質を持つように、私たちもそれぞれの特質を改めることなく、そのままの姿で無作三身の仏であると開き顕れるのである=「無作三身の仏」とは何も飾らないそのままの姿で仏の特質をすべて具えている真実の仏のこと)と仰せのように、成仏とは、自分自身が本来持っている特質を生かしきって、自身をもっとも充実させていく生き方をすることです。
すなわち、成仏とは、生命の全体が浄化され、本来もっているはたらきを十分に発揮して、さまざまな困難に直面しても動揺しない、力強い境涯になることをいいます。
また、成仏とはゴール(終着点)に到達するということではありません。妙法を受持して、悪を滅し善を生ずる戦いを続けていく、その境涯が仏の境涯なのです。
間断なく広宣流布に戦い続ける人こそが仏なのです。

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