5.信心即生活

功徳と罰

私たちは、南無妙法蓮華経という最高の法を正しく信じ持てば、妙法にそなわる限りない功徳を受け切っていくことができます。
妙法の根本であり究極の功徳は、成仏、すなわち、揺るぎない幸福境涯を確立することです。
妙法を信じて実践を始めることは、成仏という絶対的な幸福境涯への軌道に入るということです。妙法を根本に生きることで、おのずと正しい生き方となり、幸福を築いていけます。
御書には、「悪を滅するを功といい、善を生ずるを徳というなり」(762㌻)とあります。信心の実践に励み、私たちの生命を覆う煩悩や苦悩などの悪を消滅させ、智慧や安楽などの善を生み出すことが功徳です。
また、「功徳とは六根清浄の果報なり。所詮、今、日蓮らの類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は六根清浄なり」(同)とあります。
六根清浄とは、私たちの六根(眼・耳・鼻・舌・身・意。六つの知覚器官)、すなわち生命の全体が浄化され、本来もっているはたらきを十分に発揮することです。これによって、私たちは、さまざまな困難に直面しても動揺しない、力強い仏界の大境涯をわが身に開き顕していくことができます。
このように、私たちが自身の仏性を顕現する実践によって、現実の人生と生活のうえに厳然たる功徳の実証が現れ、必ず福徳に満ちた生活を送れるようになります。大聖人は、次のように仰せです。
「この曼荼羅、よくよく信ぜさせ給うべし。南無妙法蓮華経は師子吼のごとし。いかなる病、さわりをなすべきや。鬼子母神・十羅刹女、法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり。さいわいは愛染のごとく、福は毘沙門のごとくなるべし。いかなる処にて遊びたわぶるとも、つつがあるべからず。遊行して畏れ無きこと、師子王のごとくなるべし」(1124㌻)
すなわち、私たちは題目の力によって、諸天善神のはたらきにも守られ、人生のさまざまな困難を乗り越えて、福徳に包まれ、どのような場所にあっても師子王のような恐れを知らない境涯でいられるのです。
また「法華経を信ずる人は、さいわいを万里の外よりあつむべし」(1492㌻)と仰せのように、妙法を受持する人は、幸福をあらゆるところから招きよせるのです。
さらに、「さいわいは心よりいでて我をかざる」「せんだんに、こうばしさのそなえたるがごとし」(同)と教えられています。
栴檀という香木に芳香がそなわっているように、妙法を受持する人は、福徳が内から薫り出て、人々から愛され信頼され、生活も人生も守られていくのです。
反対に、仏法を誹謗し、因果の理法に反すれば、生命に悪因を刻むとともに、生活のうえに罰の現証があらわれます。
罰の現証は、不幸の道へと陥ることを知らせる兆しであり、警鐘ともいえます。自身の誤りに気付き、信仰の姿勢や生き方を見つめ直すことで、あらためて妙法を深く実践する決意が生まれるのです。
見方を変えれば、罰もまた、人々を正しく導く妙法のすぐれた性質の一つなのであって、功徳と捉え返すことができるのです。
このように、妙法を信受する功徳と、妙法を誹謗する罰が厳然とあると説くのが日蓮大聖人の仏法です。

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