初の会見は、小雪舞うワシントンのアメリカ国
務省・長官執務室で行われた(1975年1月13
日)
「訪米の際には、立ち寄ってほしい」——池田大作先生との会見を希望したのはヘンリー・A・キッシンジャー氏。当時、国際政治の“要”のアメリカ合衆国国務長官であった。
“外交の魔術師”との異名を持つキッシンジャー氏。「ヒマラヤ越えの北京入り」と報じられた電撃訪中(1971年)は、世界を「米ソの二極構造」から、「米中ソの三極構造」に劇的に転換した。池田先生も、74年に中ソ両国の首脳と会見。“民間外交”を推し進めていた。
翌75年1月——。初めての会見は、小雪がちらつくアメリカの首都ワシントンで行われた。
7度目の会見。キッシンジャー氏を歓迎(198
8年7月13日、東京)
核保有国間の緊張、ベトナム戦争……外交課題が山積するなかで、キッシンジャー氏は早くから池田先生の民間外交に注目。会見の数年前から書簡で意見交換を始めていた。会見に先立って、池田先生によるベトナム和平についての提言が氏の手元に届いていた。
初会見の席上、「池田会長の平和行動は、よく知っています」と語り、世界情勢について池田先生の見解を求めたキッシンジャー氏。池田先生のベトナム戦争終結への提言についても、「3回、読みました。数日間思索します。中東問題も意見を送ってほしい」と。
35分の初会見だったが、池田先生とキッシンジャー氏は百年の知己のようにうちとけた。
その後も、語らいを重ねるごとに、信頼を深めあってきた池田先生とキッシンジャー氏。一日では対話が終わらず、共に多忙を極めるなか、2日連続で計6時間も語り通したこともあった。
対話は尽きることなく翌日も語り合われた(19
86年9月3日、東京)
ある時、外交が成功する秘訣を尋ねた池田先生に、キッシンジャー氏は答えた。「私の信念は『交渉する相手の人物を理解することが極めて大切だ』ということです。相手の知性をというよりも、人格を理解することです」
またある時は、困難を乗り越えるために不屈の粘り強さこそが不可欠であると語り、「波浪は、障害に遭うごとに堅固の度を増す」との信条を紹介した池田先生に、キッシンジャー氏が「今のお話は、私の基本的なアプローチを見事に要約してくれました」と応じた。
語らいは、対談集『「平和」と「人生」と「哲学」を語る』として上梓されている。
対談集の“まえがき”で氏は語っている。
「我々の対談は、興趣尽きることなく、また思索を尽くしたものでありました。現代の緊迫した多くの問題について意見を交換し合ったことを、私は今でも懐かしく思い起こします」