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  • 『新・人間革命』 要旨
  • 『新・人間革命』 各章リスト
  • 『人間革命』全12巻 要旨
  • 『人間革命』全12巻  各章リスト

『新・人間革命』 要旨

巻数

第1巻

【旭日】
1960(昭和35)年10月2日、伸一は、「君の本当の舞台は世界だよ」との師の遺訓を胸に、北南米へ出発。
平和旅の第一歩は、太平洋戦争の火蓋(ひぶた)が切られたハワイの地にしるされた。伸一は渾身(こんしん)の指導を重ねながら仏法を世界宗教として開くための構想を練る。

【新世界】
第2の訪問地サンフランシスコは日本の講和条約と日米安全保障条約の調印の地。伸一は、その地で、世界の冷戦と新安保条約をめぐり混乱する国会に思いをはせる。
サンフランシスコ、ネバダに地区を結成し、やがてアメリカの同志の誓いとなる3指針を提案する。

【錦秋】
平和旅の舞台はシアトル、シカゴ、トロントへ。シカゴで伸一は、同行の幹部たちにアメリカ総支部の構想、インド、ヨーロッパ訪問の計画を語る。またリンカーン・パークで遊びの輪に入れてもらえない黒人少年を目にし、人種差別の現実に心を痛める。

【慈光】
伸一は、体調が悪化するなか、ニューヨークの友を激励する。苦悩するメンバーの質問に答えながら、信仰の基本、大聖人の仏法の本義を優しく語る。
さらに「『世界の良心』『世界の良識』といわれるような新聞にしたい」と聖教新聞の精神を語る。

【開拓者】
ニューヨークからサンパウロへ。ブラジルの座談会では、日系移民の過酷な生活状況が語られるが、伸一は信心を根本に希望の光を送る。そして支部結成の発表が、歓喜の渦を巻き起こす。最終目的地のロサンゼルスで支部を結成し一行は帰国の途につく。

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第2巻

【先駆】
1960(昭和35)年5月3日の会長就任の日から、10月2日北南米の旅に出発するまでの5カ月間、伸一は全国を駆けめぐり、新支部の結成を行っていった。
7月17日には、実質的に初の海外支部となる沖縄支部の結成大会へ。伸一は沖縄戦の戦跡を訪ね、いつの日か沖縄で戸田の伝記ともいうべき小説の筆を起こすことを決意する。

【錬磨】
沖縄から戻った伸一は第2回婦人部大会に出席。続いて、青年の人材錬磨のため、男子部の水滸会、女子部の華陽会の野外研修へ。
そこで、水滸会の精神を忘れたかのような青年達の怠惰な姿に接し、厳しく指導。夏期講習会では、「日興遺誡置文」を研さんし、峻厳(しゅんげん)な信心の姿勢を打ち込む。

【勇舞】
10月25日に北南米の旅から帰国後、伸一は千葉、前橋の支部結成大会、横浜での第9回男子部総会へ。この総会を見た米国の宗教学者が「生きた仏教」を目の当たりにした驚きを熱く語った。さらに、伸一の支部結成大会の旅が沼津、甲府、松本、長野、富山と進む中で迎えた牧口会長の第17回忌法要。戦前の宗教弾圧に思いをはせる。

【民衆の旗】
11月20日の第8回女子部総会後、伸一は東北の山形、南秋田、岩手の支部結成大会に出席。民衆のための本当の宗教の力強さを語っていく。第2回学生祭出席後、12月に入ると九州、関西、中国方面の激励旅へ。年末ようやく家族との時間を持つことができた伸一は、父親としての姿勢の一端を語る。

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第3巻

【仏法西還】
1961(昭和36)年「躍進の年」の1月、伸一は、九州の三総支部、両国支部の結成大会出席など、多忙ななか、インド、東南アジア訪問を予定していた。1月28日、仏法西還の平和旅へ。香港では東南アジア初の地区を結成。次の目的地・セイロン(現在のスリランカ)に向かう直前まで激励は続いた。

【月氏】
セイロンへの機中、伸一は将来、アジアに総支部を結成する考えを明かす。
仏法誕生の国・インド。伸一の思いは、ガンジーの思想と行動へ。2月4日、ブッダガヤで東洋広布の碑などの埋納を無事、終了。戸田が見守ってくれているような晴天だった。

【仏陀】
伸一は、精神の大国・インドの源流である釈尊に思いをはせる。生老病死の解決を決意して修行し、生命の永遠の法を悟った釈尊。彼は、身分の差別なく人々を蘇生させた。提婆達多の反逆も乗り越え、死の寸前まで法を説いた偉大な生涯だった。

【平和の光】
伸一らはビルマ(現在のミャンマー)へ。そこは長兄の戦死と、インパール作戦の舞台だった。伸一の回想は、戦中の思想統制から、牧口会長の殉難、世界平和への構想へと。
タイ、カンボジアを経て香港に戻った伸一は、アジア各地に地区を結成。東洋広布は大きく開かれた。

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第4巻

【春嵐】
1961(昭和36)年2月、伸一は、東洋広布の第一歩をしるしたアジアから帰国するや、各地の支部結成大会へ。
“大阪事件”の裁判が大きなヤマ場に差しかかっているなか、関西の3総支部の合同幹部会にも出席。自ら学会歌の指揮をとり、全魂を込めて同志を励ます。また、各地で学会員への村八分事件が起こる。

【凱旋】
各地での支部結成が歓喜の波動となり、未曽有(みぞう)の広布の上げ潮のなか、伸一の会長就任1周年の5月3日を迎える。この日、東京・両国の日大講堂で本部総会を開催。席上、伸一は「創価学会こそ“日本の柱”であり、“世界の太陽”である」と宣言する。


【青葉】
伸一は本部総会終了後、男女青年部と懇談。1961(昭和36)年を「青年の年」にと提案。さらに伸一は、九州青年部総会、男子部幹部会などに出席。青年部の育成に全力を尽くす。
また同年6月の本部幹部会で200万世帯達成が発表。


【立正安国】
1961(昭和36)年7月3日、伸一は戸田城聖の墓参に。墓前に立つ伸一の胸に、「権力の魔性と戦え! 民衆を守れ!」との師の言葉がこだまする。8月の夏季講習会を控え、伸一は寸暇を惜しんで「立正安国論」を研さん。大聖人の御振る舞いに思いをはせる。

【大光】
1961(昭和36)年10月4日、ヨーロッパ訪問のため羽田を飛び立ちデンマークへ。車窓からコペンハーゲンの街をながめながら、牧口・戸田両会長の教育理想を受け継ぎ、創価教育を実現する学校の設立を思う。
ドイツでは“ベルリンの壁”の前で、世界平和実現に生涯を捧(ささ)げ、殉じることを誓う。

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第5巻

【開道】
東西冷戦で分断された象徴の地を、必ずや平和の象徴に——ベルリンを訪問した後、ケルン、アムステルダム、パリ、ロンドンと、平和への扉を開き、ヒューマニズムの種子を蒔(ま)く「開道」の旅を続けた。高齢化の進むイギリスで、「心の若さ」をはぐくむ学会の使命の重大さを痛感する。

【歓喜】
マドリード、ジュネーブ、チューリヒ、ウィーンを訪問。ベートーベンの墓碑の前で、「苦悩を突き抜けて歓喜へ」と記した楽聖の生涯に思いをはせる。
ローマでは、同行者に「宗教者同士の対話、“善の競争”の必要性」を語った。

【勝利】
1961(昭和36)年10月23日、帰国した山本伸一は、東京での「国士10万」結集の第10回男子部総会、8万5千人が集った横浜での第9回女子部総会に出席。東北本部の落成式では「新世紀の歌」が発表された。
こうしたなか、伸一の“大阪事件”裁判での出廷が続き、裁判は大詰めを迎える。

【獅子】
1962(昭和37)年「勝利の年」が明けた。他界した北海道女子部長の北海道女子部葬、北海道総支部幹部会へ。1月17日、公明政治連盟が発足。
25日、大阪地方裁判所は、山本伸一に「無罪」の判決を下した。“大阪事件”裁判での勝利の瞬間であった。

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第6巻

【宝土】
1962(昭和37)年1月29日、伸一は中東のイラン、イラクを初訪問。イスラム教の開祖・マホメットについて語り、他宗教との対話の重要性も話題に。いずれ、イスラム教の人々も、仏法との共通点を見いだし、共感を示すだろう——訪問はその確信を深めるものだった。

【遠路】
一行はトルコからギリシャへ。伸一はソクラテスとプラトンの生涯に思いをはせる。2人の姿は、学会の師弟と二重写しに。
さらにエジプトを経て、パキスタン、タイ、香港へ。タイと香港では支部を結成。伸一は世界広布のくさびを着実に打っていく。

【加速】
博多湾に面した、粗末な家が密集する“ドカン”地域。人生の辛酸をなめ尽くした人々の間にも、信心による宿命転換のドラマが進んでいた。
伸一は、会長就任2周年の5・3を迎える。この2年で倍増した学会は、広布の戦いを加速する。

【波浪】
7月の参院選に向けた支援活動に、妨害や中傷が頻発した。そうしたなか、公政連は9人全員当選。その勝利が波浪を呼び、秋田・尾去沢鉱山と長崎・中里炭鉱で、労組による不当な学会員圧迫事件が発生。組合除名処分撤回に至るなど、闘争の経緯が語られる。

【若鷲】
7月22日に行われた学生部総会。学生部旗と部歌が披露され、14の部が結成された。部員数も既に1万人を突破。新時代の到来をとらえ、伸一は学生部の本格的な育成を決意。
それは自らが、日蓮大聖人の仏法の真髄である「御義口伝」を講義することだった。

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第7巻

【文化の華】
1962(昭和37)年10月22日、アメリカのケネディ大統領は、キューバにソ連の攻撃用ミサイルの発射基地が建設されていると演説。米ソ間の緊張は一気に高まり、人類を全面核戦争の瀬戸際に追い込むキューバ危機がぼっ発した。息づまる攻防のなか、28日、米ソ両首脳は破局の回避で合意する。
11月、恩師に誓った300万世帯という平和勢力を達成。そうした時、伸一のもとにケネディ大統領との会見の話がもたらされる。

【萌芽】
1963(昭和38)年1月8日、伸一はアメリカを最初に、欧州・中東・アジアを巡る世界一周の平和旅へ。アメリカではハワイ、ニューヨークに支部が誕生し、ロサンゼルスを加え、3支部へと発展。
生命を削る思いで一人一人の友を激励する伸一に、相呼応して新たな人材群が信心に奮い立つ。目覚ましい成長の姿を示しながら、各地に地涌の若芽が育ちゆく。

【早春】
欧州でも、ヨーロッパ総支部・パリ支部が結成。伸一の間断なき激励行は、スイス、イタリアでも。アジアにも世界広布の流れが着実に広がり、香港で3地区が結成。
1月27日、帰国の途に就く伸一は、飛行機のエンジントラブルのため、予定にはなかった台北(台湾)経由の便に変更。空港には、ひたすら彼の訪問を待ち望んできた友が集い、劇的な出会いが実現した。

【操舵】
1月24日夜、総本山を下山し、新潟駅まで帰る会員約900人が乗る団体列車が豪雪のため、宮内駅で立ち往生してしまう。地元同志は、おにぎりや豚汁など真心の支援を続け、車内の友も懸命に耐え抜く。創価の同志愛が輝きを増すなか、約93時間ぶりに運転が再開される。
4月9日、台湾の台北支部は政府の命令により解散。メンバーは弾圧の嵐にも「冬は必ず春となる」と耐え、27年後、晴れて認可を受ける。

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第8巻

【布陣】
1963(昭和38)年5月、伸一は、翌年に迫った恩師戸田城聖の7回忌を目指し、広布の布陣の強化を決意する。幹部の胸中から官僚主義を排し、学会精神をみなぎらせようと、第25回本部総会等で次々に新たな人事を発表。伸一は、真正の同志の育成を期す。
6月、伸一は、徳之島を経由して、奄美大島を初訪問。総支部を結成するとともに、命がけで離島広布に戦ってきた庶民の英雄を全魂込めて激励し続ける。

【宝剣】
7月、男子部幹部会に出席した伸一は、戸田城聖の7回忌を期して、「本門の時代」に入ることを宣言する。女子部幹部会では、男子部・女子部の部員100万達成を提案。
関西に赴いた伸一は、京大生への「百六箇抄」講義を始め、一人一人を広布の“宝剣”へと育てていく。
そんな折、聖教紙上に、日達法主から僧侶・法華講への「訓諭」が載った。背景には、広布の息吹もなく、学会を批判する宗門の腐敗が——邪悪に対し伸一は、敢然と戦いを挑む。

【清流】
1963(昭和38)年7月28日、言論部の第1回全国大会。伸一は“今こそ、民衆救済のために、正義の言論の剣をとって前進しよう”と訴え、新たな言論運動を提示する。8月度の男子部幹部会では「世界広布の歌」が発表。9月には信濃町の新学会本部が落成。10月には民音の発足……。こうした前進のなか、ある地方で、幹部の金銭詐取(さしゅ)事件が発覚。幹部の不祥事を通し、広布の組織を撹乱(かくらん)する魔の本質を究明する。

【激流】
1963(昭和38)年11月23日、ケネディ大統領暗殺の激震が世界を走る。伸一は、彼の大統領としての“1000日の戦い”に思いを馳せる。この年の12月には学会は400万世帯に。39年を「団結の年」と決定。
39年1月、学会の代表が韓国を訪問することになっていたが、渡航不許可の通知が届く。韓国には、かつて日本が行った非道な侵略と支配の歴史がある。そのため、学会に対しても根強い誤解があり、韓国に芽生えた学会組織に弾圧が襲う。だが、韓国の同志は、迫害の冬を耐え、粘り強く信頼を勝ち取り、社会で実証を示していく。

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第9巻

【新時代】
1964(昭和39)年4月、山本伸一は、師・戸田城聖の七回忌を一切に大勝利して迎え、荘厳に落成した大客殿では、その法要が営まれた。この時を期して、学会は、仏法を本格的に社会に展開する「本門の時代」に入ったのである。
5月の本部総会では、新時代の目標として、正本堂建立、6百万世帯の達成などを発表。さらに政党の結成も視野に入れ、公明政治連盟の新段階への前進を決議する。
総会後、伸一は、直ちにアジア、オセアニアへ出発し、オーストラリアでは支部を結成。帰国直後、インドのネルー首相死去の悲報が。一日も早く、人類の融合と平和の哲学を世界に流布しなければと、伸一は誓うのだった。

【鳳雛】
6月、高等部と中等部の設置が発表され、大きな感動と期待が広がった。
まず高等部が、各地に順次結成。次いで翌年1月に中等部、同9月には少年部が結成される。
伸一は、この初々しい若木こそが、二十一世紀を担う大樹であると、矢継ぎ早に成長への光を注ぐ。ある時は「鳳雛よ未来に羽ばたけ」と指針を贈り、ある時は、直接、代表に御書講義を。またある時は、皆が喜ぶならと、何曲も何曲も学会歌の指揮をとる……。
命を削って激励を続ける師の心に触れ、鳳雛たちは尊き使命に奮い立つ。ここから、創価後継の大河の流れは一段と開かれていった。

【光彩】
青年が先駆し、広布拡大の喜びが広がるなか、6月末の学生部総会の席上、伸一は、待望の「創価大学」の設立構想を発表する。
10月、伸一は、再びアジア、そして欧州を歴訪。ヨーロッパ広布を担う、宝の同志たちを全力で激励する。初めて東欧圏に足を踏み入れた伸一は、人々の暮らしぶりから、人間性を抑圧する社会主義体制の矛盾について思索を巡らす。
伸一は、さらに北欧へ。全生命を振り絞り、一念に億劫の辛労を尽くして、一人一人への励ましを続ける旅だった。

【衆望】
世界が拍手喝采した東京五輪。日本は一流国入りをしたかに見えたが、高度成長の陰で、社会福祉の立ち遅れなど、民衆を忘れた貧困な政治が続いていた。
“政治を民衆の手に取り戻そう”——11月、衆望を担って公明党が結党。伸一は、党が権力の魔性に食い破られぬよう戒めつつ、結成大会に“民衆の幸福のため、世界の平和のため、勇敢に前進を”と祝電を送る。
12月、伸一は、太平洋戦争の悲惨な地上戦の舞台となった沖縄へ。この地から、平和の大波を起こさんとの誓いを込め、伸一は、師・戸田城聖の伝記小説『人間革命』の筆を起こす。

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第10巻

【言論城】
「勝利の年」と銘打たれた1965(昭和40)年。元日付から聖教新聞に山本伸一の小説『人間革命』の連載が開始。言論・出版活動に力が注がれるなか、会員の強い要望であった聖教新聞の日刊化への本格的な準備が進む。6月、伸一は聖教新聞社を訪れ、職員と懇談。“聖教を世界最強の言論城に”と激励。編集、印刷、広告、業務の各担当者の奮闘が結実、7月15日付から聖教新聞が日刊化される。
これと相前後して海外でも機関紙誌が発刊される。

【幸風】
8月、伸一はアメリカ・ロサンゼルスへ。出発直前に、ロスで人種差別への抗議から暴動が発生。危険が予想されたが、伸一は「今こそ、仏法という生命の平等の哲学を、アメリカの天地に」との強い決意で予定通り渡米。ロス郊外での野外文化祭に出席し、全魂で同志を激励。さらに戸田会長が逝去の直前、夢に見たというメキシコへ。世界広布への新しき幸風を起こした平和旅となった。
帰国後、休む間もなく各地の記念撮影会へ。

【新航路】
1965(昭和40)年10月、本門の戒壇となる正本堂建立の供養の受け付けが開始される。
伸一は10月度本部幹部会を終え、ヨーロッパへ。パリでは、ヨーロッパ本部を2本部に分轄し、ヨーロッパ総合本部の設置を発表。アフリカの友への激励も。
西ドイツでは、日本から世界広布への決意に燃えて移住した青年たちの活躍をたたえ、最大の励ましを送った。
イタリア訪問では、民音の招へいによるミラノ・スカラ座の日本公演実現への努力がつづられる。

【桂冠】
伸一はヨーロッパ訪問から帰ると直ちに創価大学の設立審議会を発足。
さらに記念撮影会を中心に伸一は、各地のメンバーの激励に全力を注ぐ。病に悩む友や、母を亡くし、父が未入会の姉妹への指導など、無名の庶民一人ひとりに、勇気の炎をともしていった。
そうしたなか、伸一は組織の中核を担う本部職員に、いかに学会精神を伝え、人材に育て上げるかに心を砕く。
1966(昭和41)年「黎明の年」の1月、伸一はハワイへ。ハワイ会館の開館式に出席。求道に燃えるメンバーを激励し、ハワイ広布の発展へ獅子奮迅の戦いを進めた。
帰国後、2月の本部幹部会で壮年部の新設を発表。3月5日には壮年部結成式。伸一の会長就任以来、6年。新しい時代への本格的な布陣が整った。

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第11巻

【暁光】
1966(昭和41)年3月、山本伸一は5年半ぶりに南米ブラジルを訪問。しかし、誤ったマスコミ情報等から、学会を危険視する空気が強く、文化祭や会員の大会も警察の監視下の開催となった。
伸一は、圧迫に敢然と挑み、周囲の偏見を打ち破る連続闘争を開始。
そして18年後に再訪を果たすまでの、ブラジル同志が社会の信頼を勝ち得ていく奮闘が描かれていく。

【開墾】
伸一は、次の訪問地ペルーへ。首都リマでは、少人数の指導に徹するとともに、南米解放の英雄サン・マルティンの生涯に思いを馳せ、指導者の在り方を思索する。
また、同行幹部は手分けして、アルゼンチンやパラグアイ、ボリビア、ドミニカなど南米各国を訪問。そこにも、日系人移住者を中心として、過酷な環境下で、懸命に広布の開墾作業に汗する、尊き同志たちがいた。

【常勝】
伸一は、「第7の鐘」をめざし、大前進の指揮を執り続ける。
9月18日。伸一を迎えた関西の友は、雨のなか、甲子園球場で関西文化祭を決行。苦難の雨を栄光の雨に変えた祭典は、新しき「常勝関西」の金字塔となった。
このころ伸一は、深刻化したベトナム戦争に心を痛め、仏法者として、11月の青年部総会で、和平提言を行うなど、平和への努力を続けた。

【躍進】
「黎明の年」から昭和42年「躍進の年」へ。
1月、公明党は初挑戦の衆院選を勝利し、衆議院第4党に躍進。人間性尊重の中道政治実現へ、本格的な戦いが始まる。
4月下旬、伸一は新潟を訪れる。そこで9年前の佐渡訪問を回想。その折、彼は、死罪・流罪の大難を覚悟で、民衆救済のために妙法を残された日蓮大聖人の御生涯を偲び、いかなる迫害にも負けず、前進しようと誓ったのであった。

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第12巻

【新緑】
1967年(昭和42年)5月、会長就任7周年の本部総会を終えた山本伸一は、アメリカ、ヨーロッパ各国歴訪の旅に出発した。
アメリカでは、未来の大発展の布陣として、総合本部を発足。フランスでは新緑のパリ会館の入仏式に出席した。
訪問した各地で、新しい青年たちが喜々として活動に励む姿があった。ニューヨークではダンサーなど、芸術家を志す青年が台頭。パリでは女子部の活躍が目覚ましかった。
伸一は、イタリア、スイス、オランダでも、寸暇をさいて青年と会い、全力で励まし、広布の若芽の育成にあたった。

【愛郷】
帰国後、伸一は、国内各地を激励に回り、同年6月には、長野県の松代へ走った。
松代の同志は、2年前に始まった群発地震のなか、この地を寂光土にと決然と弘教に立つ。伸一は同志に、地震に負けず、模範の国土、組織を築こうと、渾身の励ましを続ける。
8月には岐阜・高山市に。江戸時代、悪政に苦しんだ飛騨の地から、幸福の花園をと語る伸一。郷土愛に燃えた同志の献身の行動は、地域の発展にも大きく貢献していった。

【天舞】
9月、創価文化会館の落成入仏式を終えた伸一は、四国・九州指導へ。
10月15日には、東京文化祭が国立競技場で開催され、伸一が見守るなか、出演者6万2千人の民衆絵巻は大成功を飾る。その偉業の陰には、人文字の下絵や各演目の振り付け等に献身する人々の支えがあった。また出演者の一人一人に、自己の壁に挑み、限界を打ち破る、幾多の勝利のドラマがあったのである。
同月下旬、「ヨーロッパ統合の父」クーデンホーフ・カレルギー伯爵が伸一を訪問。世界平和の実現へ、仏教、そして学会に期待を寄せる伯爵と伸一は深く共鳴し合った。後年、2人の対話は、対談集『文明・西と東』に結実する。

【栄光】
1968年(昭和43年)の「栄光の年」を伸一の詩「栄光の門出に」で出発した学会は、広布への歩みを加速する。
4月8日、東京・小平の地で創価高校・中学の第1回入学式が行われた。牧口初代会長が弟子に託した創価教育の具体化であり、伸一が会長就任の直前、開校の準備に着手して以来の夢の実現だった。
伸一は創価学園に幾度も足を運び、生徒一人ひとりを我が子のごとく激励。彼の慈愛に包まれ、生徒たちは大きく成長していく。
創価学園を“原点”に、創価教育は大学、小学校、幼稚園へと展開。卒業生は、全世界を舞台に社会貢献の実証を示している。

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第13巻

【金の橋】
1968年(昭和43年)、大学会の結成など学生部の育成に力を注ぐ山本伸一は、9月8日に行われる第11回学生部総会の席上、「日中問題」について重大な発言をする決意を固めていた。
当時、中国は国連に代表権を持たず、アメリカも日本も敵視政策をとっていた。そのなかで日中国交正常化を訴えることは、命の危険も覚悟せざるをえない状況であった。
だが、伸一は、“文化の恩人”である中国との友好なしに、アジアの安定も、世界平和もないという信念から、敢然と「日中国交正常化提言」を世に問う。
それは予想通り反発を呼ぶが、松村謙三をはじめ日中友好の先達は高く評価し、周恩来総理ら中国指導部も、この提言に鋭く注目する。復交を求める良識の声は高まり、伸一の創立した公明党がやがて重要な橋渡し役となり、提言から4年後(72年9月)、国交正常化に結実していく。

【北斗】
1968年(昭和43年)9月、伸一は、北海道の旭川へ、そして日本最北端の地・稚内へ飛んだ。
この稚内で、伸一は、「自信をもて」と呼びかけ、「稚内が日本最初の広宣流布を成し遂げてもらいたい」等と、最大の期待を寄せた。それは、厳しい条件で戦う学会員が、偉大な広布の勝利の実証を示せば、全同志の希望になるからであった。
彼は、北海道よ、北斗七星のごとく、広布の永遠なる希望の指標たれと祈ったのである。
この9月の本部幹部会で、学会の縮図である座談会の充実を呼びかけた伸一は、自ら先頭に立って、最前線の座談会に飛び込む。その波動は全国に広がり、運営にあたる幹部をはじめ、皆の決意と意識が一新。民衆の蘇生の広場である「座談会革命」が進んでいった。

【光城】
1968年(昭和43年)11月、伸一は2度目となる、奄美の訪問を実現。
奄美では、この数年前から、広布の進展を妨害する魔の働きが激しくなっていった。ことに、ある村では、躍進する公明党への危機感から、その支援団体である学会への敵視が強まり、村をあげての学会員への村八分が行われるに至った。迫害はエスカレートし、御本尊の没収や仕事上の圧迫、学会撲滅を訴えるデモにまで発展した。
この試練を、奄美の同志は歯を食いしばって耐えた。いな、御書通りの苦難であり、“変毒為薬を”との伸一の指導を受けて、決然と戦っていったのである。
伸一は、5年ぶりの奄美で、その尊き同志たちを抱きかかえるように励まし、奄美を日本の広宣流布の理想郷にと呼びかけるのであった。
今、奄美は、広布の先駆を切る希望の「光城」として、地域広布の勝利の旗がひるがえっている。

【楽土】
1969年(同44年)の新年、伸一は、全同志に詩「建設の譜」を贈った。
1972年(同47年)の正本堂建設に符節を合わせ、自身の胸中に不滅の信心を築き上げるとともに、万代にわたる広宣流布の堅固な基盤を完成させることを訴えた。
2月15日、伸一は、沖縄の天地に立った。米軍基地に苦しむ沖縄に楽土を建設するために、各人が自らの宿命転換を図り、国土の宿命転換をも成し遂げようと訴える伸一。
その彼の指導のごとく、駐留米軍のアメリカ人の学会員の面倒をみるメンバーや、わが子を不慮の事故で亡くしたメンバーの、宿命転換のドラマがつづられていく。
そして、伸一と名護・国頭の同志との劇的な出会いなどの魂の交流が、沖縄に楽土建設への不屈の闘志を燃え上がらせていった。

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第14巻

【智勇】
1969年(昭和44年)5月3日の本部総会の席上、山本伸一は750万世帯の指標を示すとともに、創価大学に、「人間教育の最高学府たれ」等の三つのモットーを示した。
また、過激化していく学生運動について「第三の道」を開いていくよう学生部員に提案する。
伸一は、月刊誌に次々と筆を執り、暴力革命では真の社会改革はできないことを述べ、人間革命を根本とした無血革命こそ、社会の矛盾を乗り越える道であると強調。また、三権分立に教育権を加えた「四権分立」構想を提唱していく。
未来ある学生を守りたいと願う伸一は、夏季講習会の折、男子学生部が大学の自治を奪う「大学立法」に反対する抗議集会を行うと聞けば、自らデモの先頭にも立った。
その姿に、多くの学生部員が奮起。やがて彼らは、学生運動の「第三の道」を目指し、新学生同盟(新学同)を結成するのである。これは後の青年部の難民救援運動など、学会の平和運動の先駆的試みとなった。

【使命】
この年は、広布の緑野に、多彩な使命の花が、新たに咲き始めた年であった。
まず、女子部の看護婦(現・看護師)メンバーによる白樺グループが結成。「生命の世紀」へ飛翔を開始した。さらに鼓笛隊は、アメリカでのパレードに参加し、数々の感動のドラマが生まれていった。
“新しい時代を担う人材を育成しよう”——伸一は、同志が使命に乱舞する時代をつくるために必死であった。
夏季講習会では、37カ国・地域から集った海外の友に、雨中、濡れながら渾身の激励を重ねた。そして、文芸部の結成式に臨んでは、文は生命であり、文は魂であり、また文は境涯であると語り、新しきルネサンス(文芸復興)の担い手が、陸続と育つことを願うのであった。

【烈風】
間断なき伸一の戦いは過酷を極め、体力も限界に達していた。
師走。この年、7度目の関西訪問中、伸一は急性肺炎による高熱と咳に襲われる。だが、医師も危ぶむなか、和歌山に入り、病を押して学会歌の指揮をとる。その生命を賭しての激闘は、全同志を鼓舞し、偉大な民衆勝利の歴史を開く。
当時、学会は荒れ狂う烈風にさらされていた。折から浮上した“言論・出版問題”に事寄せ、ついには、国会まで巻き込んで学会と公明党への攻撃が沸騰するのである。
その背景には、大躍進を続ける学会、そして公明党に危機感を抱いた、既成の宗教勢力と政治勢力が結託し、迫害の構図が作られていたのである。
だが同志は烈風をはね返して、70年(同45年)1月、目標より早く、会員750万世帯を突破する。伸一もまた、体調の悪いなか、同志を励ますために、小説『人間革命』第6巻の執筆を再開する。
第三代会長就任10周年となる5月3日が近づきつつあった。伸一は、広宣流布の流れが渓流から大河へと変わる今、新たな展望を示そうと決意する。

【大河】
1970年(同45年)5月3日の本部総会で、伸一は、広宣流布とは“流れそれ自体”であり、永遠の闘争であると強調。そして、広宣流布は“妙法の大地に展開する大文化運動”と位置づけた。
そして、学会の組織形態について、これまでのタテ線——紹介者と新入会者のつながりで構成された組織から、ヨコ線——地域を基盤としたブロック組織へと移行することを提唱。それは、地域のなかに人間の連帯を作り上げるためであった。
伸一の眼は21世紀に注がれていた。ゆえに、未来の主役となる少年少女の育成に全力を傾けた。その翼の下から、人材グループ「未来会」の若人が力強く羽ばたくことになる。
同年9月、聖教新聞社の新社屋が落成。伸一は、日々、惰性を打ち破ることが、良い新聞をつくる最大の要件であると指導。1カ月半後の全国通信員大会では、“通信員と配達員こそ新聞の生命線”と訴え、“大河の時代”へ、着々と布石を重ねていったのである。

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第15巻

【蘇生】
山本伸一は、1970年(昭和45年)5月の本部総会で、「公害問題」に言及。広宣流布とは、仏法の人間主義を根底とした社会の建設だと考える彼の、やむにやまれぬ発言であった。
イタイイタイ病や水俣病等が深刻化するなか、彼は反公害闘争のペンをとり、仏法の“人間と環境”の共生の哲学を通して公害根絶を訴え、大きな反響を広げていく。
当時、水俣でも妙法の同志が自他共の宿命転換を願って、懸命に戦っていた。伸一は74年(同49年)1月、遂に水俣の友に会う。皆が人々の希望となり、郷土の蘇生の歴史をと、全精魂を注いで励ますのであった。
“妙法の大地に大文化運動を”と、「第三文明華展」などが多彩に行われた70年。伸一もまた、精神闘争即芸術の結晶として、「青年の譜」等の詩を次々に発表する。
一方、作家・三島由紀夫の割腹死事件を巡って学生部員と語り、広布と民衆のために命を捧げる人生たれと念願した。
翌71年(同46年)2月には、伸一は北海道に飛び、初の“雪の文化祭”に出席。新しき庶民文化の祭典を実現した友を、心から讃えた。

【創価大学】
1971(昭和46)年4月、東京・八王子に創価大学が開学。牧口・戸田両会長の構想を受け継いだ伸一が、「人類の平和を守る要塞たれ」等の理念を掲げ、全生命を注いで建設した教育の城である。
創立者の伸一は大学の自主性を尊重し、開学式にも入学式にも出席しなかったが、彼を慕う一期生たちは、何の伝統もないなか、次々にクラブを設立するなど、懸命に、奮闘していった。
当初、教員の一部に、伸一の来学を歓迎しない空気があった。しかし、ならば我々が創立者を呼ぼうと、学生が大学祭を開催し、遂に伸一の訪問が実現する。これ以後、伸一が大学行事に出席し、直接、学生と交流する流れがつくられる。
2年目の秋、理事会がほぼ決定した学費改定案を学生に諮ると、これは創立者が示した「学生参加の原則」を壊すものだと、学生たちは白紙撤回を要請。その真剣さに、理事会も同意する。その後、学生たちは協議を重ね、自主的に学費値上げを決議したのである。
こうしたなか、伸一は「全員が創立者の精神で!」と語る。彼の期待を真剣に受け止めた学生たちは、理想的な学園共同体の実現へ、建設の労苦を背負っていく。
第3回入学式には、伸一が初めて出席し、“人類のため、無名の庶民の幸福のため”という創大開学の意義を講演。また、滝山祭の盆踊り大会に加わり、血マメを作りながら太鼓を叩くなど、学生のなかへ飛び込んで励ます伸一の姿は、人間教育の模範であった。
大学の評価は卒業生で決まる。伸一は、大学に招待した各企業のトップ一人ひとりに自ら名刺を渡し、「学生を宜しく」とあいさつするなど、全力で学生を応援した。
4春秋を経て、遂に迎えた第1回卒業式。伸一は共に大学建設に戦った一期生に、生涯、創大で結んだ魂の絆を忘れるなと激励するのであった。


【開花】
「大河の時代」を進む学会は、いよいよ、その仏法の哲理を現実社会のうえに開花させる時を迎えていた。伸一は、1971(昭和46)年6月、牧口初代会長の生誕100年に際し、この大河を開いた創価の源流の先師への感謝の思いを募らせる。
2日後には、北海道へ飛び、激励行の合間に月の写真を撮影。彼の写真は、やがて「自然との対話」写真展に発展し、新たな民衆文化の波を起こすことになる。
伸一は、学会の発展が、そのまま地域と社会の繁栄につながると考え、地域との交流を図る取り組みを思索していた。その構想を具体化した、「鎌倉祭り」と、「三崎カーニバル」は、地域の興隆を願う学会員の真心が輝き、社会に開かれた信頼と友情の舞台となったのである。
同年の夏季講習会の最中、大型の台風の影響を受け、近くでキャンプを行っていたボーイスカウトの世界大会の運営本部から、避難させてほしいとの知らせが入った。伸一の陣頭指揮で万全の支援を推進。垣根のない人間と人間の交流がなされた。慈悲の光による社会貢献の時代が大きく開花していた。

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第16巻

【入魂】
この1年は広宣流布の未来にとって、極めて重要な節目となる年であった。
いよいよ10月には、日蓮大聖人が後世の弟子に建立を託された「本門の戒壇」となる正本堂が落成し、世界広布が新展開を迎えるのだ。山本伸一は、その新しき建設のために、全同志の胸に、永遠に崩れぬ信心の柱を打ち立てねばならないと決めていた。
元日の新年勤行会、2日の大学会総会と、伸一の「入魂」の激励が開始された。「地域の年」と謳われたこの年、伸一は最前線組織のブロックを強化し、信心の歓喜をみなぎらせていこうと決意し、ブロック長、ブロック担当員(現在は白ゆり長)との記念撮影等に一段と力を注いだ。
東京・新宿区の記念撮影では、学会本部を擁する“本陣”の使命を語り、祖国復帰を5月に控えた沖縄の地では、わずか3泊4日の滞在で、ブロック長など第一線組織で活躍する主立ったメンバー全員を励ます決心で、友の中に飛び込んで行く。
その疾走は、伸一が初代総ブロック長を務めた葛飾や恩師との思い出深き千代田、さらに関東、関西などへと続いた。
会う人ごとに希望の光を! 訪れた地域ごとに誇りと力を!
——伸一の戦いに呼応し、弟子たちは雄々しく立ち上がっていったのである。

【対話】
4月、伸一はフランス、イギリス、アメリカ歴訪へ旅立った。
今回の最大の目的は、20世紀を代表する英国の歴史学者トインビー博士との対談である。交流の発端は、1969年(昭和44年)秋、博士から伸一に対談を要請する手紙が届いたことだった。東西冷戦など、人類の抱える諸問題を解決する方途を求め、博士は学会に注目していたのだ。
その手紙で希望されていた「麗らかな春」——5月5日に、伸一はロンドンのトインビー博士の自宅を訪ねた。
83歳の博士は、44歳の伸一に語った。「21世紀のために語り継ぎましょう! 私はベストを尽くします!」
世代も文化的な背景も異なるが、人間の根源を探り、人類の未来を憂える二人の心は共鳴した。博士の主張も、伸一の語る仏法の生命論と、深く響き合っていった。
博士は訴えた。人類が直面する脅威を克服するには、宗教の啓発による人間の「心の変革」が不可欠だと。まさに「人間革命」といってよい。
人生論、歴史論、政治論等々、談論は尽きず、博士の強い希望で、73年(同48年)5月、伸一は再びロンドンへ。2年越し40時間に及ぶ、不滅の対話となったのである。
対談の最後に、博士は伸一に、対話こそ人類を結ぶものであり、“ロシア人、米国人、中国人とも対話を、世界に対話の旋風を”と望んだ。
以来、伸一は、世界の知性や指導者をはじめ、「世界との対話」を広げていく。人類の心と心を結ぶために——。

【羽ばたき】
帰国した伸一に休息はなかった。
7月には東北へ。折からの豪雨で、訪問予定の秋田をはじめ、全国各地に大きな被害が出ていた。
宮城入りした伸一は、秋田での記念撮影会を中止し、迅速に被災地域への激励の手を打つ一方、山形を訪問。さらに秋田に入って、メンバーを励ます。
また伸一は、全国の被災地に救援態勢を整えるよう指示。各地に救援本部が置かれ、広島や島根をはじめ、救援隊の奮闘に、学会への感謝と信頼が広がっていった。
10月12日——着工から4年、世界中の同志が待ちに待った正本堂が遂に完成。羽ばたきゆく鶴の姿を思わせる大殿堂で、晴れやかに式典が挙行された。
「慶讃の辞」を読む伸一は、感慨無量だった。
正本堂は、日達法主によって実質的な「本門の戒壇」と位置づけられていた。だからこそ、同志は、正本堂建立の供養に勇んで参加した。
また正本堂は、権威で飾られた建築と異なり、民衆自身が人類の平和と繁栄を祈る、未聞の民衆立の大殿堂である。
さらに伸一の意向で、参詣者の安全と至便性を第一に考慮した、「人間主義の思想」に貫かれた画期的な宗教建築となったのである。
ところが、わずか26年後の1998年(平成10年)、67世の法主を名乗る日顕によって、正本堂は解体される。それは800万信徒の赤誠を踏みにじり、大聖人御遺命の「本門の戒壇」たるべき大殿堂を破壊する暴挙であった。
しかし、御遺命の戒壇となる正本堂を建立した功徳・福運は、誰人も消すことはできない。
学会は、宗門の暴虐の嵐を勝ち越え、人間主義の宗教として、21世紀の大空へ悠然と羽ばたく。

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第17巻

【本陣】
「広布第2章」に入って初めての新年である1973年(昭和48年)「教学の年」が明けた。山本伸一は、「広布第2章」とは仏法を基調とした社会建設の時ととらえ、広宣流布の大闘争を決意する。
この年は別名「青年の年」。伸一は、仏法の多角的な展開を担う、青年たちに強く訴えた。
——師弟の道を歩め。社会に開く“遠心力”が強くなるほど、仏法への“求心力”が必要であり、その中心こそ師弟不二の精神だ、と。
また、伸一が当面の大テーマとしていたのが、本陣・東京の再構築だった。1月に新宿、練馬の友を激励したあと、2月に入ると、まず中野へ。参加した中野の青年たちに、30年間、毎年集うとともに、メンバーで「中野兄弟会」を結成することを提案。
伸一の足跡は、2、3月にかけて、港、渋谷、世田谷、千代田、杉並、目黒、さらに多摩方面の第2東京本部へと及び、地域ごとの特色を大切にした激励を重ねる。ここに「東京革命」の烽火が燃え上がった。
日本の政治・経済の中心である首都・東京で、難攻不落の大城を構築し、世界の立正安国の基盤を築く戦いが、伸一の手で着々と進められていったのである。

【希望】
“教育はわが生涯をかけた事業”と、創価教育に全精魂を注ぐ伸一は、4月11日、大阪・交野市に誕生した創価女子中学・高校(当時)の入学式へ。
交野は、豊かな自然に恵まれ、古くは和歌等にもうたわれたロマンの天地である。伸一は自らこの場所を選び、1969年(昭和44年)に建設計画を発表して以来、最高の教育環境を整えるために、真剣に心を砕いてきた。
関西の学会員も、その伸一の心に応え、用地の草取りなど、喜び勇んで支援してくれた。
そして迎えた入学式。 全国から集まった生徒たちに向かって伸一は、「他人の不幸のうえに自分の幸福を築くことをしない」という信条を培うよう期待を寄せる。
式典終了後の語らいでは、帰りが遅くなる時は、家に電話を入れること、いつでも電話ができるように10円玉を持っておくことなど、具体的なアドバイスを行うのだった。
伸一の限りない期待を強く感じ取った生徒たちも、通学途中に行き交う人々へのあいさつの励行や、最寄りの駅に花瓶と花を贈るなど、学園のよき伝統をつくるために努力を重ねる。こうした行動に、学園生への地域の信頼と共感が広がっていった。
また、伸一は、多忙な行事を縫って学園を訪れ、生徒のなかに飛び込んでいった。
長男の正弘は、創価教育への父の志を受け継ぎ、創価女子学園の教員に。後に、伸一の二男、三男も創価教育に従事していった。
創価女子学園は82年(同57年)、男子生徒を受け入れ、新スタート。女子生徒たちが真剣に取り組んだ「よき伝統」は大きく開花し、日本を代表する人間教育の城となっていく。

【民衆城】
「広布第2章」の大空への飛翔は、全同志の“信心のエンジン”を全開にする以外にない。4月から5月にかけて、伸一は一瞬の機会も逃さず、同志のなかへ飛び込んでいく。
東京・荒川の同志と出会えば、瞬時に励ましの懇談会に。荒川は、57年(同32年)8月、伸一が夏季ブロック指導の最高責任者として、弘教の指揮をとった地であった。その前月、伸一は無実の罪により、大阪で不当逮捕された(大阪事件)。荒川の地は、学会と民衆を苦しめる権力の魔性への、反転攻勢の舞台となったのだ。
4月の本部幹部会では墨田へ。ここもまた、53年(同28年)、伸一が男子部の第1部隊長を務めた時、広布拡大に走り抜いた地だった。その激闘を振り返りながら、民衆勝利の方程式が、感動的に示されていく。
伸一の東京各区の激励は続く。渋谷の後、生まれ故郷の大田へ、文京支部長代理時代に縁の深かった豊島へと、休みなく走った。
5月8日からは欧州へ飛んだ。フランスでは、「第三文明絵画・華展」やパリ大学へ。さらに、「ヨーロッパ会議」を設立する。英国へ渡ると、前年に引き続きトインビー博士と対談。帰国の途次には、経由地のオランダでメンバーを激励。希望の民衆城を築く、伸一の奮闘は続いた。

【緑野】
伸一は、東京に続き、各方面・県の強化の第一歩として福井県へ。福井は空襲、地震、台風など幾度も大災害に見舞われた。その国土の宿命転換のために必要なのは、まず人々の“心の変革”であった。
県幹部総会に出席した伸一は、福井の伝統に新たな光をあてて郷土の誇りを掘り起こし、「福井のルネサンスを!」と力説。学会員こそ地域繁栄の主役との深い自覚を促していったのである。
また席上、伸一は、13年前、夜行列車に乗った伸一に会おうと、深夜に敦賀駅に来たが、対面できなかった同志に励ましの言葉を。終了後には、福井長を務める青年に、指導者の在り方を語る。
伸一の激闘は、妻・峯子が戦時中に疎開していた岐阜県にも。
県幹部会では、「一人立つ」と題した、青年部の創作劇が感動を呼ぶ。“命ある限り戦う”との叫びに、伸一は、これが学会精神だと伝言を。会合では、一人一人の社会での勝利の実証が学会の正義の証明になると訴えた。また岐阜本部では、聖教新聞の記者・通信員に激励を重ねる。
皆の胸中に使命の種子を、勇気の種子を植え続けることが、希望の緑野を広げると確信していた伸一は、群馬県へ。
群馬が“地方の時代”の先駆を切り、広布のモデル県になるよう期待を寄せ、地元の交響楽団で活躍する友を励ます。
さらに茨城に続いて、北海道を訪問。ここでは「広宣流布は北海道から」との指針を贈る。

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第18巻

【師子吼】
1973年(昭和48年)7月、山本伸一は、映画「人間革命」の完成試写会に臨んだ。原作は、恩師・戸田城聖の生涯をつづった伸一の小説『人間革命』である。
映画化のきっかけは、原作に感動したプロデューサーの要請だった。その熱意に承諾した伸一も、撮影現場を訪れ、俳優やスタッフを励ますなど、誠心誠意、応援した。
当代一流の映画人が総力をあげた作品は、記録的な大ヒットとなったのである。
そのころ伸一は聖教新聞社を足繁く訪れていた。「言論・出版問題」以来、一部の記者の間に、安易に社会に迎合して、信心の世界を見下すような風潮が生じていたのだ。
その本質は「信心の確信」の喪失である。伸一は記者たちのなかに飛び込み、記事の書き方から生活態度までアドバイスしながら、“広布の使命に生き抜け!”“仏法の眼を磨け!”と、職員の根本精神を教えていく。
さらに通信員大会では、5項目の聖教新聞の基本理念を発表。
正義の“師子吼”を放つ言論城が、伸一の手づくりでそびえ立っていったのである。

【師恩】
鍛錬の夏季講習会。伸一は合計10万人に及んだ参加者を全力で激励。そのなかに5年前に結成した男子部の人材育成グループ「白糸会」もいた。青年たちは、伸一の渾身の励ましに応え、師恩を報じようと懸命に戦い、成長していく。
9月に北海道に飛んだ伸一は、厚田村(当時)の有志による「村民の集い」へ招かれた。村をあげての歓迎は、恩師の故郷を楽土にと願う、伸一と同志が地域に築いた信頼の結実であった。
帰京後も、埼玉や、「山陰郷土まつり」が行われる島根、さらに鳥取を訪問。病苦に打ち勝った友の体験をはじめ、行く先々に、伸一と師弟共戦の凱歌が響いていく。
11月、栃木を訪れた伸一は、県の総会に、小学校の恩師の檜山夫妻を招待する。幾十年が過ぎても、変わらず幼き日の恩師を讃える伸一。そこに、人間として師恩を報じ、どこまでも師弟の道を貫く信念が輝いていた。

【前進】
各方面・県・区など各地の組織を強くしてこそ、創価の民衆城を支える柱は盤石になる——全国への伸一の激励は続いた。
菊花香る晩秋の愛媛では、聖教新聞の購読推進に大奮闘した同志の心意気に、伸一は、「広布第2章」の前進の光を感じる。
香川、徳島に赴いた彼は、広布途上に早世した青年を偲び、求道心をたぎらせ続けた老婦人との劇的な出会いなどを刻みながら、学会員こそ郷土の繁栄を担う社会の宝であると訴えた。
当時、石油危機による物価高騰と不況が深刻化し、中小企業の多い地域で苦闘する同志も多かった。しかし、混迷の世相だからこそ、信心という原点をもった学会員が社会の希望となる。
師走にかけて、東京各区を回った伸一は、烈々と叫ぶ。「不況に負けるな! 今こそ信心で勝て!」
1973年(同48年)の掉尾を飾る本部総会が、初めて関西で開催された。明年の「社会の年」へ、同志は、人間主義の新時代を開くため、勇んで大前進を開始する。

【飛躍】
世界経済の激動で明けた74年(同49年)。「大悪は大善の来るべき瑞相」(御書1467ページ)と、学会は逆境を希望に転ずる確信で「社会の年」を出発した。
年頭から伸一が力を注いだのは、広宣流布の基盤である座談会の充実だった。
その成功のために彼は、中心者の一念の大切さ等を、折あるごとに訴える。
北九州での青年部総会、福岡・田川の友を激励した伸一は、1月下旬、鹿児島から香港へ飛ぶ。
10年ぶりの香港は、実に8000世帯に大発展。皆の功徳満開の姿が、伸一の最高の喜びであった。同志は、誤認識の批判をはね返し、社会に着実に信頼を広げてきた。
伸一は、香港市政局公立図書館、香港大学、香港中文大学を訪れ、文化・教育交流に新たな一歩を踏み出す。さらに「東南アジア仏教者文化会議」に出席。世界広布の大飛躍の時を、伸一は命を賭してつくり続けた。

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第19巻

【虹の舞】
1974年(昭和49年)2月、山本伸一は本土復帰後最初となった沖縄訪問で、初めて石垣島(八重山諸島)・宮古島を訪れる。島の同志は伸一の来島を心待ちにし、地域広布に奮闘してきた。その友のため、伸一は両島で、記念撮影会や図書贈呈式、文化祭、さらに先祖代々の追善法要へと走り、自らも鉢巻き姿で友と一緒に踊るなど、渾身の激励を続けた。
那覇に戻ると、広布20周年記念の総会で、沖縄を真の理想郷にと訴え、県北部の名護にも足を運ぶ。この間、彼は、全国初の「高校会」を結成、高・中等部員に反戦出版を提案するなど、未来世代の育成に全力を注いだ。
戦争で苦しんだ沖縄こそ平和実現の使命がある——伸一は、心に美しい虹をいだいて前進するよう、沖縄の友を励ますのだった。

【凱歌】
3月、伸一はアメリカ・ブラジル・ペルー歴訪へ旅立った。
だが、ブラジルの入国ビザが下りず、渡伯を中止して中米パナマを初訪問する。ここにも多くのメンバーがいたのだ。政府高官や大学総長らとの語らいに続き、ラカス大統領を表敬。伸一にとって、国家元首との最初の会見となった。
続くペルーは8年ぶりの訪問。前回は警察等の厳しい目が学会に注がれていたが、今や同志は社会に信頼を広げ、状況は大きく変わっていた。伸一は、ペルー会館の開所式や、炎天下での記念撮影会に相次ぎ出席。メンバーの功労をたたえるとともに、全力で激励にあたった。
その彼に、首都リマ市は「特別名誉市民」称号を授与。文化祭にも市長ら多数の来賓が出席し、社会貢献の同志の凱歌が轟いた。
伸一は過労で体調を崩すが、病を押して南米最古のサンマルコス大学を訪問。教育の未来を語り合った総長と伸一は、深い友情を結んでいく。

【陽光】
ペルーを発った伸一は、メキシコ経由でアメリカへ戻った。
4月1日、彼はカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)を訪れ、「21世紀への提言」と題して記念講演を行う。仏法の生命観を通し、「21世紀を生命の世紀に」と訴えて大好評を博した。これは、伸一が海外の大学等で行った最初の講演となった。
海外初となる恩師の17回忌法要が終わると、舞台はサンディエゴ市へ。伸一への市や郡からの顕彰に続き、市中パレードや全米総会など盛大なコンベンション(大会)が行われ、友の歓喜が弾けた。
訪問中、伸一は自ら陽光となって、出会った人、陰の人を励まし続けた。帰国の途次には、病床から復帰した草創の友のために、予定を変更してハワイに立ち寄る。

【宝塔】
4月半ばに帰国した伸一は、長野や北陸など各地へ走った。
そのころ、青年部の反戦出版委員会のメンバーが、戦争体験の証言集の編集作業に没頭していた。これは、伸一が、恩師の「原水爆禁止宣言」の精神の継承を青年部に託したことに応え、取り組んできたものだった。
出版の先陣を切ったのは沖縄青年部であった。凄惨な体験ゆえに沈黙する人々にも、誠意を尽くして取材を重ねた。そしてこの年の6月、「戦争を知らない世代へ」の第1弾として、『打ち砕かれしうるま島』が発刊された。
続いて広島・長崎の青年部も、原爆の惨劇を世界に叫ぶ証言集を出版。やがて1985年(昭和60年)には、47都道府県を網羅した反戦出版全80巻が完結する。戦争の悲惨を伝え、平和と生命の尊厳を訴える出版は、各界に大きな共感を広げた。
1974(昭和49)年5月、伸一は視覚障がい者のグループ「自在会」の集いへ。幾多の労苦を越えてきた友を、全精魂を注いで激励。“皆が尊厳無比なる宝塔として自身を輝かせよ”と心から祈るのであった。

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第20巻

【友誼の道】
1974年(昭和49年)5月30日、山本伸一は妻の峯子と共に、中華人民共和国を初訪問する。
香港から歩いて国境を渡って深センに入り、中国への第一歩を。
伸一は、中国に文化大革命の嵐が吹き荒れるなかで「日中国交正常化提言」(68年9月)を発表するなど、両国の関係改善に奮闘。72年9月には日中国交正常化が実現した。
中国側は、伸一の貢献を高く評価。各地で熱烈な歓迎を受ける。北京では中日友好協会や小・中学校、人民公社等を訪問。北京大学では5000冊の図書贈呈の目録を手渡す。この訪問が創価大学との交流の源流になる。
伸一が、最も心を痛めていたのは中ソ対立だった。中日友好協会の代表との座談会で懸命に平和を訴え、中国には侵略の意思がないことを確認。李先念副総理との会見でも、中国は強く平和を求めていることを確信する。
上海での答礼宴で、学生部長の田原と中国の青年が再会を喜び合う姿に、伸一は“日中提言”の時に思い描いた夢が実現しつつあることを感じる。往路と同様、歩いて香港側へ向かう伸一は深く心に誓う。“中ソの戦争は絶対に回避しなければならない。さあ、次はソ連だ!”

【懸け橋】
宗教否定の国へ、なぜ行くのか。「そこに、人間がいるからです」——伸一は中国に続いて、9月8日にソ連を初訪問。彼の胸には“対立する中ソの懸け橋となり、世界平和の幕を開かねば”との決意の炎が燃え盛っていた。
金秋のソ連の大地を踏んだ伸一は、モスクワ大学のホフロフ総長と懇談。同大学と創価大学との間に、教育・学術交流への具体的な計画が検討され、議定書の調印に至る。
また、民間外交機構である対文連のポポワ議長、高等中等専門教育省のエリューチン大臣、民族会議のルベン議長らとも対話を。文化省では民音、富士美術館との交流に合意。ソ連科学アカデミーと東洋哲学研究所との学術交流の道も開く。
レニングラードを訪問し、再びモスクワに戻った伸一は、ノーベル賞作家ショーロホフと会談。そして、訪ソ最後の日、クレムリンでコスイギン首相と会見した。
伸一は、中国の首脳が他国を攻めるつもりはないと語っていたことを伝え、率直に尋ねる。
「ソ連は中国を攻めますか」。首相は答える。「ソ連は中国を攻めないと、伝えてくださって結構です」
伸一の手で、中ソの対立の溝に一つの橋が架けられようとしていた。
首相と会見した後、一層の日ソ交流促進への意思を明らかにするため、一行と対文連とのコミュニケ(声明書)が発表される。

【信義の絆】
12月2日、伸一は北京大学の図書贈呈式に招かれ、再び中国を訪問。
中日友好協会の廖承志会長に、伸一は、コスイギン首相との会見内容を中国の首脳に伝えるよう託す。この訪問でも、北京大学での諸行事やトウ小平副総理との会談など、伸一の真心の人間外交が織り成されていく。
滞在最後の夜、答礼宴が終わりに近づいたころ、周総理からの会見の意向が伝えられる。療養中だった総理の病状を案じる伸一は丁重に辞退を。しかし、会見は総理の強い意志であることを知り、入院する305病院へ。会見の部屋には伸一と峯子だけが入った。
周総理は、伸一の中日友好への取り組みを高く評価し、中日平和友好条約の早期締結を切望。未来を託すかのような総理の言葉を、伸一は、遺言を聞く思いで心に刻む。
周総理と会見した1カ月後の翌75年新春、伸一はアメリカへ。
国連にワルトハイム事務総長を訪ねた。その際、青年部の悲願が込められた核廃絶への一千万署名簿を手渡す。
翌日、キッシンジャー国務長官と初の会談を行うため、ワシントンへ。伸一は中東和平への提言を英訳した書簡を手渡す。長官は書簡を熟読し、伸一の提言を大統領に伝えることを約束する。
会談後、伸一は、渡米していた大平正芳蔵相に日中平和友好条約の早期締結を訴える。
そして、第1回「世界平和会議」が開催されるグアムへ。平和の新章節の幕が開かれようとしていた。

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第21巻

【SGI】
1975年(昭和50)年1月26日。世界51カ国・地域のメンバーの代表158人がグアムに集い、第1回「世界平和会議」が開催された。
グアムは、第2次世界大戦で日米の攻防戦が行われた島。会場に置かれた署名簿の国籍欄に「世界」と記した山本伸一の胸には、恩師の「地球民族主義」との言葉が響いていた。
会議では、国際平和団体・IBL(国際仏教者連盟)が誕生。そして、各国メンバーの団体からなる、創価の精神を根幹とした国際的機構としてSGI(創価学会インタナショナル)が結成され、全参加者の総意で伸一がSGI会長に就任した。
また、生命の尊厳に目覚めた民衆の連帯を築き、恒久平和の創出を誓った「平和宣言」が採択。伸一は「全世界に妙法という平和の種を蒔いて、その尊い一生を終わってください」と呼びかけた。
会場には、伸一が励まし、はぐくんできた各国のリーダーが集っていたが、韓国メンバーの姿はなかった。だが、韓国SGIは幾多の試練を乗り越え、後に大発展を遂げることになる。

【人間外交】
1月28日に帰国した伸一は、ノーベル賞を受賞した佐藤栄作元総理をはじめ、各界のリーダーらと精力的に対話を重ねていく。
また、訪ソの印象をまとめた『私のソビエト紀行』の発刊や、新聞連載「私の履歴書」を開始。作家の井上靖や福田赳夫副総理とも相次ぎ会談。
さらに、日中国交正常化後、中国から初の正式な留学生を迎える創価大学の入寮式に駆けつけ、激励する。
そして4月14日、3度目の訪中へ。北京大学などを訪問。トウ小平副総理と再会した伸一は、難局を迎えていた日中平和友好条約の締結へ、中国側の見解をあらためて確認する。
カンボジアの首都プノンペンが民族統一戦線によって陥落した翌18日、北京でシアヌーク殿下と会見。平和への全精魂を注ぐ人間外交が展開されていく。
この夜、列車で武漢へ。創大1期生が縁となり交流する、呉月娥が教壇に立つ武漢大学で図書贈呈式を行う。
20日、空路、上海へ。復旦大学を訪れた伸一は、創大に来た6人の留学生を見守り、日中友好への行動を続けていくことを誓う。

【共鳴音】
5月3日、会長就任15周年の式典で、伸一の提案による「創価功労賞」等の授賞や会場提供者への表彰が行われる。その後、男子部、学生部の代表の集いに出席。広布の未来を託し、そのメンバーに自身の名を取って「伸一会」と命名する。
13日には仏・英・ソ連の訪問に出発する。フランスでは、パリ大学ソルボンヌ校の総長や大統領府事務局長、ローマクラブの創立者であるアウレリオ・ペッチェイ博士と会談。欧州最高会議や友好祭などに出席する一方、陰で活躍するメンバーのグループ結成や中心者の家庭訪問など、渾身の励ましを続ける。
18日にロンドンへ移動し、イギリス代表者会議に出席。翌日、トインビー博士に、伸一との対談集と創大名誉教授称号の証書を贈るために、王立国際問題研究所を訪ねる。
博士は病気療養中のため秘書に託し、再びフランスへ。午後には作家のアンドレ・マルロー宅を訪問し会談。翌日も美術史家ルネ・ユイグとの会談など、伸一は“対話の旋風”を巻き起こし、魂の共鳴音を広げていく。

【宝冠】
フランスでの予定を終えた5月22日、伸一は第2次訪ソへ。一行には、重層的な日ソ交流を推進するため、婦人部や青年部、創価大学、民音、富士美術館などの代表も加わった。
翌日から分刻みのスケジュール。対文連、文化省の訪問に続き、ショーロホフ生誕記念レセプションでスピーチ。
連邦会議議長、モスクワ市長、海運相らとも会見。婦人・女子部の代表とソ連婦人委員会を訪れ、世界初の女性宇宙飛行士である同委員会のテレシコワ議長らと会談を行う。
27日、モスクワ大学の総意で、伸一に世界の知性の宝冠である「名誉博士号」が贈られた。続いて伸一は、「東西文化交流の新しい道」と題して記念講演。人間の心と心を結ぶ「精神のシルクロード」を、との訴えに、聴衆の歓声と拍手は鳴りやまなかった。
翌日、コスイギン首相と再会。中国への警戒を強くする首相に、訪中で周恩来総理、トウ小平副総理と会談したことを伝える。険悪化する中ソ関係を改善するため、自身が両者の懸け橋になろうと覚悟していたのである。

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第22巻

【新世紀】
1975年(昭和50年)6月、山本伸一は新世紀への飛翔のために、東京各区をはじめ、各地の首脳幹部との協議会に力を注いでいた。大田区から始まった協議会では、新会館の建設や記念行事の開催が決まるなど、新しい前進の目標が次々と打ち出され、新たな希望が広がる。
 戸田第2代会長の出獄30周年の7月3日、記念の集会で伸一は、戸田が提唱した地球民族主義の平和構想実現への決意を力強く語る。そして、恩師の偉業を永遠に顕彰する記念碑を、戸田の故郷・厚田村に建設することを提案する。
 青年部は結成記念日を控え、聖教新聞で紙上座談会「青年が語る戸田城聖観」を連載。師と共に新しい時代を開く青年の熱意があふれる紙面となった。
 このころ、伸一は、各界の指導者や識者との対話に全力を傾けていた。
 7月12日には、日本共産党委員長の宮本顕治と会談。二人の語らいは毎日新聞に連載され、その間に“創共協定”が発表される。
 一方、文学界の巨匠・井上靖との手紙による語らいは、往復書簡『四季の雁書』として月刊誌「潮」7月号から連載が開始。生死や老いの問題からカントやトルストイなど、幅広い対談は12回にわたって続けられ、1977
年(昭和52年)に単行本として結実。
 また、この連載が始まったころ、“経営の神様”といわれる松下幸之助との往復書簡集の発刊準備も進んでいた。出会いを重ねる一方、書面を通しての語らいを進めてきたのだ。人間の生き方から、日本、世界の進路など、テーマは多岐にわたり、この年の10月、『人生問答』上・下巻として発刊に至る。

【潮流】
 7月22日、伸一は、第12回全米総会を中心とした「ブルー・ハワイ・コンベンション」に出席するため、一路、ホノルルへ。
 この総会は、翌年がアメリカの建国200年に当たることから、その前年祭記念行事として開催されることになり、大統領からもメッセージが寄せられていた。3日間にわたる大会は、25日、アメリカを代表する一流の芸術家が出演するナイトショーからスタート。翌26日、メンバーが難問を克服して造り上げた人工の浮島で行われた全米総会には伸一と共にアリヨシ州知事が出席し、あいさつ。SGI(創価学会インタナショナル)が多様性を重んじ、民族、文化の相違を克服して、友愛と人間愛を信条としていることを賞讃した。
 登壇した伸一は、民衆と民衆の友愛と調和があってこそ、真の平和が築かれると述べ、異民族同士の共存を可能にしてきたハワイの「アロハの精神」に言及。それは仏法の「慈悲」「寛容」に通じるものであることを訴えた。
 この夜、行われたパレードには、伸一との約束を果たし、喜々として行進するニカラグアのメンバーの姿も。大会の最終日には、アメリカの建国の歴史と精神をミュージカルでうたい上げるなど、絢爛たる舞台が続いた。
 行事の合間をぬって伸一は、来賓との会見をはじめ、広島などの交流団やブラジル、ペルーの代表を宿舎に招いて激励を重ねる。29日、コンベンションを陰で支えたスタッフらに、伸一は自らバーベキューの肉を焼いてもてなすなど、労をねぎらい、励ましていく。
 世界への第一歩をハワイにしるしてから15年——。今、再びこの地から、平和の新しい潮流が起ころうとしていた。

【波濤】
 未来を開くために何よりも必要なのは新しい人材である。
 伸一は、ハワイから帰国すると、創価大学での夏季講習会で陣頭指揮を執る。
 8月3日の「五年会」の総会、翌日の高等部総会での渾身の指導をはじめ、連日のように各方面の幹部や各部の代表と懇談を重ね、さらに、未来部員を見送るなど寸暇を惜しんで激励を続けた。
 東京男子部の講習会では、外国航路で働く船員の集いである「波濤会」のメンバーと記念撮影する。
 「波濤会」からは、大しけで船首を折られた貨物船の乗組員全員の救助に成功し、総理大臣表彰を受けた「だんぴあ丸」の船長など、多くの人材が育つ。また、不況にあえぐ海運業界を勇気づけようと企画した「波濤会」の写真展は海外10カ国へ広がり、共感の波を広げていく。
 伸一は、若い女性の育成にも全力を注ぎ、9月9日には、女子部学生局の幹部会に出席。御書を通して指導したあと、夜の会合の終了時間を早め、午後8時半とする「8・30運動」を提案。
 28日には、女子部の人材育成グループ「青春会」の結成式へ。彼は21世紀を託す思いで魂を打ち込んでいく。
 新時代の女性リーダーを育成するこの会は、次々と各方面で結成されるが、伸一は折あるごとにメンバーを励まし、見守り続ける。
 やがて総合婦人部長、婦人部長をはじめ、広布の枢要な立場で活躍するメンバーや社会で重責を担う人材が育っていく。

【命宝】
 この世で最も尊厳な宝は、生命である。
 9月15日、伸一は、その生命を守る、現代の四条金吾ともいうべきドクター部の総会に初めて出席する。「健康不安の時代」と言われている現代にあっては、心身両面にわたる健康に着目する必要があると指摘し、精神的な健康の確立が身体上の健康増進の大きな力となることを訴える。この日は、後に「ドクター部の日」となる。
 11月7日夕刻、本部総会に出席するため広島入りした伸一は、到着早々、落成間もない広島文化会館の館内をくまなく視察。夜には開館式に出席して指導。8日には、平和記念公園の原爆死没者慰霊碑に献花し、祈りを捧げる。
 9日、被爆30年を迎えた広島の地で本部総会を開催。伸一は、この地上から一切の核兵器が絶滅する日まで、最大の努力を傾けることを宣言し、広島での国際平和会議の開催など、全廃への具体的な取り組みを提案する。さらに、日本が目指すべき今後の進路や、創価学会の社会的役割などに言及。講演は1時間20分にも及んだ。
 終了後、来賓のレセプションを終えた伸一は、広島未来会第2期の結成式へ。少年少女合唱団も招き、交流のひとときをもつ。10日には、海外メンバーの歓迎フェスティバル、原爆犠牲者の追善勤行会などが続くなか、広島会館へ。会館前の民家の主にも丁重にあいさつし、対話を交わす。
 11日、予定を変更し、呉会館を初訪問。駆け付けたメンバーと勤行し、指導を重ね、その合間には、控室でも激励を続ける。また、広島文化会館に戻る途次、人待ち顔でたたずむ学会員を見つけては、励ましを送る。

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第23巻

【未来】
 1976年(昭和51年)4月16日、札幌創価幼稚園が開園。創立者・山本伸一によって、創価一貫教育最初の「教育の門」が完成した。入園式に出席した伸一は、園児を自ら出迎え、真心こもる触れ合いを重ねる。「皆のために何でもしたい」という伸一の心情と行動を目の当たりにした教職員は、創立者と同じ思いで子どもを育てようと誓う。
 伸一は、折々に幼稚園を訪れ、園児と心の絆を結んだ。伸一と教職員の情熱に育まれ、園児は伸び伸びと成長し、未来へ羽ばたいていく。創価の幼稚園は、札幌に続き、香港、ブラジルなど海外5カ国・地域に開園。各国・各地域で創価の人間教育は、高い評価を得ていくことになる。

【学光】
 創価大学に通信教育部が開設され、5月16日の開学式に第1期生が集う。通信教育部は、伸一が、創価大学の設立を構想した当初からの念願であり、民衆教育の眼目であった。伸一は、通信教育部の機関誌を「学光」と命名。〝学の光で人生、社会を照らしゆく〟との指針が定まった。開学式に伸一は、万感の思いを込め、テープに録音した長文のメッセージを贈る。
 夏期スクーリングにも伸一が訪れ、懇談や記念撮影など激励が続く。その心に応えようと通教生たちは苦闘を重ねながら勉学に励み、卒業の栄冠を勝ち取っていく。伸一は、通教生の催しである学光祭への出席など、渾身の励ましを続けた。やがて、卒業生からは医学・工学博士、公認会計士、教員などとして社会に貢献する人材も数多く育っていく。

【勇気】
 創大通教の開学式の日の夜、学生部の2部(夜間部)に学ぶ男子学生による「勤労学生主張大会」が盛大に開催される。前年に、伸一の提案で2部学生の集い「飛翔会」が結成され、メンバーは伸一と同じ青春の道を歩む誇りに燃え、先駆の学生部のなかでも一段と輝きを放っていた。
 「7・17」——それは、事実無根の公職選挙法違反の容疑で、大阪府警に不当逮捕された伸一が、釈放された日である。その20年目を記念し、伸一は、新しい学会歌の制作に取り組む。多忙を極めるなか、歌詞を何度も推敲し、曲作りに励んだ。18日夜、師弟の共戦譜、生命の讃歌ともいうべき「人間革命の歌」が完成。翌日の夜には、全国各地の会合で声高らかに歌われ、さらに世界各地の同志へと広がっていく。

【敢闘】
 7月23日、伸一は名古屋で女子部の人材育成グループ「青春会」を激励し、三重県の中部第一総合研修所へ。歴代会長の精神を学び、継承するため遺品等を展示した記念館をはじめ研修所内を視察。26日、中部学生部の代表で「学生部厚田会」を結成。8月6日には鹿児島県の九州総合研修所に飛び、12日に東京に戻り、3日間にわたる茨城指導へ。
 19日から再び九州総合研修所に向かい、人材育成グループ「鳳雛会」「鳳雛グループ」の大会や本部幹部会に相次ぎ出席。喜界島の草創期を築いた婦人にも最大の励ましを送る。伸一の入信記念日であり、恩師との思い出深き24日には、会員宅を訪問。来る日も、来る日も、力を尽くし、同志を励ます。その地道な労作業にこそ、広宣流布を決する「敢闘」がある。

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第24巻

【母の詩】
 1976年(昭和51年)の8月末、山本伸一とフランスの作家アンドレ・マルローとの対談集が発刊された。また、同月半ばから10月上旬にかけて開催された方面・県の文化祭は、「人間革命の歌」とともに、人間讃歌の絵巻を繰り広げた。
 9月5日、東京文化祭に出席した伸一は、彼の詩に曲をつけた「母」の歌の調べに耳を傾けながら、世界中の尊き母たちへ感謝の祈りを捧げるとともに、病床にある彼の母・幸を思い、心で唱題した。2カ月余り前、危篤状態に陥り、奇跡的に一命を取り留めた母は、伸一に語った。「皆さんが待っておられるんだろう。私のことはいいから、心配しないで行きなさい」と。その母の心を体して、この日も、崩れた5段円塔に再挑戦した男子部員らに励ましを贈るなど、奮闘し抜いてから母のいる実家へ。苦労に苦労を重ねてきたが、「日本一の幸せ者」と言い切った母。翌朝、母は、安らかに霊山へ旅立つ。
 9月14日、伸一は静岡県の東海研修所に先師・牧口常三郎を顕彰する牧口園を訪問。さらに、10月25日には恩師・戸田城聖の故郷・厚田村に建設される戸田記念墓地公園の着工式に出席。11月には、北陸を訪問し、石川文化会館に戸田記念室を、富山文化会館に牧口記念室の設置を提案。関西牧口記念館の開館式にも臨み、歴代会長の遺徳を宣揚し、その精神を伝えるために全力を尽くす。

【厳護】
 1976(昭和51)年晩秋の夜、伸一は学会本部周辺を巡回していた「牙城会」の青年に出会うと、一緒に建物の隅々まで点検しながら、絶対無事故を期す基本を徹底し、学会厳護の精神を訴える。
 11月、登山会の輸送を担ってきた「輸送班」を発展的に解消し、諸行事の運営・整理などを担う「創価班」が発足すると、翌年1月6日に「創価班総会」の開催を提案した。
 77年(同52年)「教学の年」が明ける。新年勤行会終了後、伸一は次々と記念のカメラに納まり、「白蓮グループ」のメンバーも激励。彼女たちに、民衆奉仕の精神と「冥の照覧」への確信を語り、励ます。
 一方、聖教新聞の元日付から、伸一の「諸法実相抄」講義が始まり、「大白蓮華」の1月号から「百六箇抄」講義の連載も開始されるなど、仏法研鑽の息吹が学会に満ちあふれる。伸一は、1月15日に大阪で開催された教学部大会で、〝宗教のための人間〟から〝人間のための宗教〟への大転回点が仏教の発祥であったことなどを訴える。

【人間教育】
 77年、学会は、広宣流布の主戦場である第一線組織の強化に取り組む。伸一は、各部大ブロック幹部の勤行会に出席し、仏法への大確信を打ち込んでいく。伸一に代わって勤行会を担当する最高幹部との懇談では、全同志の功徳と歓喜の実証こそが、組織強化の要点であることを訴える。
 2月6日夕刻、創価学園生との懇談に続いて、第1回となる東京教育部の勤行集会に出席。創価の源流を継承する教育部が61年(同36年)に誕生して以来、伸一は、その育成に精力を注いできた。勇んで立ち上がった教育部員はそれぞれの場で人間教育に奮闘。実践報告大会の開催や体験談集を発刊していく。また、地域では教育相談室を開催し、社会貢献の大きな実績を挙げてきた。伸一の励ましによって、教育部は、新時代の大空に雄々しく飛翔し、全国津々浦々に、「平和の世紀」「生命の世紀」を開く人間教育の潮流を広げていく。

【灯台】
 社会本部に、社会部、団地部、農村部(現在の農漁光部)、専門部の設置が発表されたのは、オイルショックの引き金となった1973(昭和48)年10月の第4次中東戦争の勃発直後であった。
 いずれも、信心を根本に、社会、地域に貢献していくことを目指して設置されたものである。
 1977(昭和52)年の2月2日、山本伸一は、社会部の勤行集会に出席し、皆が職場の勝利者となる要諦を語る。社会部員は自覚を一段と深め、職場の第一人者として光り輝いていく。
 17日には、全国のメンバーが集って開催された第1回「農村・団地部勤行集会」へ。過疎化のなかで農業再生のために「農業講座」や「農村青年主張大会」などを開催する農村部へ、伸一は〝地域、学会の灯台たれ〟との指針を示す。
 一方、団地部は、過密化した居住環境のなかで、潤いのある人間共同体をつくるために献身していた。伸一は、団地部のメンバーには〝幸福への船長、機関長たれ〟との指針を贈る。一人一人が、蘇生の光を送る灯台となって、社会の航路を照らし出す——そこに、創価学会の使命がある。

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第25巻

【福光】
 1977年(昭和52年)3月11日、山本伸一は完成したばかりの福島文化会館を訪問。幾度となく過酷な試練にさらされてきた東北の宿命転換を願い、激励行を開始する。
 出迎えた東北長、福島県長らに青年育成の在り方などを語り、夜には、福島文化会館の開館記念勤行会に臨む。8年前に示した「希望に燃えて前進する福島」「生活闘争に勝利の福島」「生命力豊かな信仰の福島」の3指針の意義を確認。
 続けて行われた県・圏の代表との懇談会では、具体的な事例を通して、リーダーの姿勢や団結の要件等について述べ、さらに青年部には、信仰への絶対の確信をつかむよう念願した。
 翌日、伸一は懇談会で、2人の婦人に懐かしそうに声を掛けた。2人はかつて、伸一が支部長代理をしていた文京支部の日本橋地区に所属していた。
 1957年(昭和32年)7月、当初、福島を訪れる予定であった伸一が、大阪事件で不当逮捕される。福島の同志は、伸一の獄中闘争を思い、彼が打ち出した〝一班一〇(イチマル。10世帯の折伏)闘争〟に奔走。このメンバーが原動力となり、地区は全国模範の優秀地区に名を連ねたのである。
 福島滞在2日目の12日、伸一は2回目の開館記念勤行会や代表幹部との懇談会に出席し、指導に全力を傾ける。翌13日には、東北6県の婦人部代表との懇談、代表幹部会に出席。
 さらに「3・16」の意義を込めた福島県青年部記念集会では、「青年が、人びとの勇気の原動力となり、未来を照らす福光の光源となっていくなら、福島は盤石です」と期待を寄せる。

【共戦】
 1977(昭和52)年3月19日付の聖教新聞で、「八葉蓮華」をデザイン化した創価学会の新しいシンボルマークを発表。
 山本伸一は、全国各地に完成した新会館の開館記念勤行会に相次ぎ出席。5月17日には、本部幹部会を翌日に控えた九州平和会館に到着。これまで外部会場で行われてきた本部幹部会は、全国に誕生した会館や研修所で行うようになっていた。
 九州平和会館での本部幹部会を終えた伸一は、19日、10年ぶりに山口へ。彼は、この訪問を「第二の山口開拓指導」と位置づけていた。夕方、山口文化会館で行われた懇談会では、「山口開拓指導」で共に戦った同志に、「人生の総仕上げ」をテーマに指導。①報恩感謝の思いで、命ある限り広宣流布に生き抜く②それぞれが幸福の実証を示す③広宣流布の後継者を育て残していくことが重要である、と訴えた。
 懇談会終了後、伸一は、山口市内を視察。サビエル記念聖堂を眺め、フランシスコ・ザビエルの日本での布教活動に思いをはせる。そして、世界広布のために死身弘法の信念に立つ、真の信仰者の育成を誓う。
 さらに伸一は、山口文化会館や徳山文化会館での記念勤行会にも出席し、防府会館も訪れ、一人一人の同志に不退の火をともしていった。

【薫風】
 「九州が ありて二章の 船出かな」——1977(昭和52)年5月22日、北九州文化会館での句碑の除幕で、伸一は、〝先駆〟の九州の使命は最後まで常に〝先駆〟であり続けることにあると訴える。
 青年の代表らと懇談会をもった彼は、かつて小樽問答や「3・16」の式典で司会を務めた経験を通して、司会の役割・要件をアドバイス。さらに、歯科医の青年たちを激励した。北九州では、記念勤行会などの諸行事にも出席したほか、小倉南区の個人会館を訪れ、感謝を述べ、和歌を贈る。
 5月25日、佐賀を10年ぶりに訪問した伸一は、創大出身者が地元で活躍している様子を聞き、佐賀文化会館での懇談会に現役生、卒業生の代表を招き、〝皆が開拓者に!〟と望んだ。26日には佐賀文化会館の開館記念勤行会が行われ、婦人部に新リーダーが誕生。懇談会で伸一は、前任の県婦人部長に、後任の人が存分に力を発揮できるかどうかは前任者の責任であると指導。経済的な事情から大学進学を断念した県男子部長には、教養をつけること。副県長を兼任する県青年部長には、県長の自覚で一切の責任、苦労を担うとともに、陰に徹することを訴えた。
 懇談会が終わると、婦人部員との約束を果たすために、彼女の夫が営む理髪店へ。誠実な伸一の姿を目の当たりにした夫は、やがて真剣に活動するようになり、未入会であった養女夫妻も信心を始める。伸一が行くところ、蘇生と歓喜のドラマが広がった。

【人材城】
 5月27日、熊本文化会館に到着した伸一は、会館由来の碑文を県青年部長に読ませることから、青年への育成を開始する。
 懇談では、新会館から新しい人材が陸続と育つことを念願。人材の根本要件は、広宣流布の師弟の道に生き抜く人であるとし、先輩幹部自らが実践をもって同志を触発していくことが大切であると述べた。
 その後、女子職員と語り合い、幸福観、活動の在り方、年上の部員との関わり方など、若い女性リーダーの悩みに答え、未来の大成を願う。
 翌28日、熊本文化会館の開館記念勤行会に続いて懇談会に出席。伸一は、彼が熊本への第一歩をしるした三角の同志が奮闘しているエピソードや、玉名の友が兄弟で力を合わせて父の借金を完済し宿命転換している様子、集中豪雨に遭った五木のメンバーが彼の伝言を胸に変毒為薬していった報告などを聞く。
 伸一は、五木村に伝わる「五木の子守唄」から、子どもたちの幸福のために教育改革に立ち上がった初代会長・牧口常三郎を思い、断じて不幸をなくそうというのが創価教育の原点であり、学会の心であると訴える。さらに未入会の父をもつ医学生を励ます。また、懇談会の後も、代表幹部に対し、城の石垣を例に、多彩な人材の育成と異体同心の団結によって難攻不落の創価城ができると語った。
 翌29日、伸一は、出発時刻ぎりぎりまで、熊本の同志への激励に、魂を注ぎ続ける。

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第26巻

【厚田】
 「広布旅 師弟不二なり 三世まで」——1977(昭和52)年9月30日、山本伸一は、恩師・戸田城聖の故郷である北海道・厚田村に完成した戸田記念墓地公園を訪問。恩師を永遠に顕彰し、その精神をとどめる「記念の城」を、この地に築こうとの思いが、遂に結実したのである。創価学会初のこの墓園は、「恒久性」「平等性」「明るさ」を基本理念に、日蓮仏法の生命観が表現されていた。
 その夜、伸一は、妻の峯子、子息の正弘と共に恩師ゆかりの戸田旅館を訪れ、さらに、戸田から世界広宣流布を託された思い出の浜辺に立つ。10月2日の開園式では厚田を〝生死不二の永遠の都〟に、墓地公園を〝人間蘇生の憩いの広場〟にと呼び掛ける。その後も、記念勤行会等に連日出席し、「人間革命」「地域友好」「信心継承」の広宣流布総仕上げの3指針を示すなど、9日に東京へ出発する5分前まで指導を続けた。

【法旗】
 「教学の年」第2年となる1978(昭和53)年の1月6日、新春本部幹部会で、広布第2章の「支部制」の実施が発表される。それまでの総ブロックを支部とし、草創期の支部のように清新な息吹で、仏法対話の輪を広げ、学会伝統の信心錬磨の組織を築き上げていくことになった。
 「支部制」による、新たな発展の原動力は婦人部であると考えていた伸一は、14日、第2東京本部の婦人部勤行会に出席する一方、教学部師範会議や教学部大会にも出席し、自ら教学運動の先頭に立っていった。
 16日、彼は、愛媛県の松山へ。青年部幹部の家族や、会館管理者とその家族を励まし、功労者宅に足を運ぶなど、学会を陰で黙々と支える友に光を当てる。18日の松山支部結成18周年記念勤行会では、参加者を玄関前で出迎えもした。その夜、地元の婦人部幹部の要請を受け、急きょ、愛媛訪問最終日の19日に、勤行会の開催を決める。自らの昼食の時間を勤行会にあてたのである。それは、幹部は会員のためにあるとの精神を行動で示すものであった。

【勇将】
 1月19日、香川県の四国研修道場を訪問した伸一は、広布第2章の「支部制」の新出発にあたり、「創価学会の発迹顕本」といえる戦いを開始しようと心に誓う。その夜、方面・県幹部との懇談会では、〝会合での指導と個人指導の比率は2対8を目標に〟等と指導する。
 21日には、新支部体制発足後、初となる四国研修道場での本部幹部会に出席。伸一は、幹部の最も大事な信心の基本姿勢は、同志を大切にし、一人のために尽くし抜くことであると力説。翌22日は、皆が自由に参加することができる勤行指導会を開催し、集った同志に渾身の激励を重ねる。その後、視察に向かった高松講堂の建設予定地では、寒風のなかで待っていた人たちを抱きかかえるように励ます。
 1月25日、奈良支部結成17周年記念幹部会が、完成したばかりの明日香文化会館で行われる。席上、花束を贈られた草創の奈良支部の初代支部長・婦人部長夫妻には、烈々たる確信で夫の病を克服し、無理解の罵倒にも屈せず、弘教に走り抜いてきた体験があった。伸一は、一切の学会活動は「折伏精神」を根本としていることを述べ、わが生命に「信心の王城」を築くことが、新会館に魂を打ち込むことになると訴える。

【奮迅】
 東京に戻った伸一は、1月27日、全国で行われる支部結成大会の冒頭を飾る、東京・杉並区の方南支部結成大会に出席。「支部は地域における学会本部」と語り、地域を「幸せの花園に」と念願する。
 2月18日、伸一は東京・立川文化会館で行われた本部幹部会へ。翌19日には、同会館に集った信越男子部の代表に、ホイットマンの詩の一節を引いて、今、立ち上がることの大切さを指導する。
 「支部制」が軌道に乗り始めたことを確認した伸一は、次に、最前線組織であるブロックの強化に力を注ぐ重要性を痛感。首脳幹部との懇談で、若き日に通い続けた埼玉・川越地区での御書講義について述懐し、真剣勝負の行動の大切さを強調する。
 伸一の奮闘によって、「支部制」に魂が打ち込まれ、組織の隅々まで、新生の息吹があふれていった。3月の半ば、彼は幹部に、油断を排し、「日々挑戦を」と訴える。
 学会は、宗門の悪侶らの誹謗中傷という、猛り立つ波浪のなかを進んでいたのである。
大転回点が仏教の発祥であったことなどを訴える。

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第27巻

【若芽】
 1978(昭和53)年4月9日、東京創価小学校が武蔵野の地に誕生し、第1回入学式が晴れやかに行われた。小学校の開校によって、幼稚園から大学院までの創価一貫教育の城が完成する。創立者の山本伸一は、入学式前日に小学校を訪れ、校内を視察。翌日の入学式後にも児童たちと記念撮影、記念植樹をし、昼食を共にして祝福する。
 伸一は、折あるごとに小学校を訪問し、母子家庭や経済的に大変な家庭の児童、障がいのある児童らと自ら会い、抱きかかえるように激励。運動会、児童祭にも出席する。
 1982年(昭和57年)3月、第1回卒業式では、「『平和』の二字だけは生涯忘れてはならない」と語る。翌月、大阪府枚方市に関西創価小学校が開校。伸一との黄金の思い出を刻みながら、創小生の若芽は、大きく成長し、社会へと巣立っていく。

【正義】
 学会は、本格的な世界広宣流布の時を迎え、日蓮仏法の本義に立ち返った教学の深化を図り、万人の平等を説く仏法の法理を、広く社会に展開してきた。しかし、宗門の若手僧らは、それを謗法だと言って非難。伸一は、仏子である会員を守ろうと、宗門と対話を重ねる。
 1978(昭和53)年、春から、学会は全国各地で〝合唱祭〟を開催する。4月15日、埼玉文化合唱祭に出席した伸一は、信仰によって躍動した生命で奏でる合唱の歌声は、万人の心を結ぶ〝文化の懸け橋〟となり、仏法を社会に開く推進力となると訴える。
 23日、三重研修道場での三重文化合唱祭に出席。24日には、地元の婦人部本部長宅を訪れ、草創の功労者を励ます。その後も支部婦人部長宅を訪問。寸暇を惜しんで個人指導を重ね、リーダーの在り方の範を示す。

【激闘】
 5月3日、会長就任18周年を祝賀する記念勤行会が全国各地で開催された。伸一は、メーン行事となる創価大学での表彰式典で、「生涯、信行学の実践を」と力説する。
 9日には、東京・練馬文化会館の開館記念勤行会へ。信心は晩年の総仕上げの時が大事であり、最後まで堂々と学会を支えていくなかに、真実の黄金の人生があると語る。
 14日から、鹿児島県の九州研修道場で開催された春季研修会に臨む。鹿児島会館や会員宅も訪問し、創価大学出身の青年部員らとも懇談のひと時をもつ。
 17日には福岡へ飛び、九州最高会議で個人指導の基本姿勢を確認。続いて福岡圏・別府支部の体験談大会であいさつ。
 18日、山口市内の支部座談会に出席。座談会の在り方について、功徳の体験を語り、信心の確信に満ちた集いにと望む。
 20日には平和原点の地・広島で初の開催となった本部幹部会に。21日には岡山県女子部の合唱祭で励ましと指導を重ねる。

【求道】
 伸一は、5月27日、東北平和会館で東北婦人部長・書記長らを激励。翌日、伊達政宗の騎馬像が立つ、夜の青葉城址を散策。24年前、戸田城聖と共に訪れた折、師が語った「学会は、人材をもって城となす」との言葉が耳朶に響く。
 29日、福島文化会館での代表幹部との懇親会に。翌30日、郡山会館を訪れ、前年に亡くなった会館管理者の追善法要を行い、夫人を励ます。
 6月8日には北海道へ。厚田では、北海道青年部の第6回総会で指導。
 13日には釧路へ。別海の北海道研修道場を初訪問する。滞在中、役員の青年への激励をはじめ、標津町へも足を運び、個人指導に力を注ぐ。16日、上春別で雑貨店とドライブインを営む壮年と、77歳の求道心旺盛な母親を讃え、句を贈る。
 伸一の北海道での激励行は16日間にわたった。この間、共に記念撮影した人の数は約5千人。延べ2万人を超える会員と会い、励まし続けた。

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第28巻

【広宣譜】
 1978年(昭和53年)6月28日、山本伸一は、学会本部で新学生部歌の作詞を開始。一節一節の意義を学生部の代表に語りながら、〝全員が人材、全員が使命の学徒、学生部の活動は世紀の指導者に育つための修行〟との指針を示す。新学生部歌「広布に走れ」は、30日の学生部結成記念幹部会で発表され、瞬く間に日本中の友に愛唱されていった。
 この頃、伸一は宗門による理不尽な学会攻撃に苦しめられている学会員を励まし、皆の勇気を奮い起こすために、各部や全国の方面や県などに、〝希望の歌〟を贈りたいと考えていた。7月に入ると、新男子部歌「友よ起て」や白蓮グループの「星は光りて」、新壮年部歌「人生の旅」、練馬区・北町地域の支部歌「北町広布」、千葉の歌「旭日遙かに」と、次々に歌を作っていった。また、7・17「大阪の日」を迎えるにあたって、苦楽を共にしてきた関西の友に「常勝の空」を贈り、今再びの出発を切る。
 引き続き、中国方面の指導へ。移動の車中や懇談の合間も作詞や推敲に取り組み、岡山では九州の歌「火の国の歌」を、さらに鳥取県米子では中国の「地涌の讃歌」を発表。再び岡山に戻った彼は、四国の「我等の天地」、新高等部歌「正義の走者」(後の未来部歌)を完成させていく。

【大道】
 7月24日、香川県の四国研修道場の野外研修で「我等の天地」を発表。翌日の記念幹部会で伸一は、〝凡夫こそ仏〟という創価の人間主義の根幹を語り、〝人材の四国に〟と期待した。26日には、2度目の小豆島訪問へ。豪雨災害を乗り越えた友を励まし、のちに「小豆島の歌」を贈る。
 27日、名古屋での「中部の日」記念幹部会では、中部に贈った「この道の歌」を熱唱。広布誓願の〝この道〟を進むなかに、信心の醍醐味と真の喜楽があることを語った。翌日、岐阜・東濃地域へ。5回におよぶ記念勤行会を行い、渾身の指導と激励を重ねる。
 8月2日、伸一は、荒川文化会館で行われた東京支部長会で東京の歌「ああ感激の同志あり」を発表。信心根本に「感激」をもって生きる学会員の一日を表現した歌詞を解説するとともに、学会活動に取り組む支部長・婦人部長の姿勢を語る。終了後、代表幹部と懇談し、〝東京は一つ!〟との自覚を促す。
 さらに、東北の「青葉の誓い」、北陸の「ああ誓願の歌」、神奈川の「ああ陽は昇る」を作り上げ、9日からの九州指導の激闘のなか、北海道の「ああ共戦の歌」(後の「三代城の歌」)を、22日からの長野指導では「信濃の歌」を発表するなど、錬磨の月・8月も、希望の歌、勇気の歌を作り続け、全国に広布に生き抜く共鳴音を広げた。

【革心】
 8月12日、日本と中国の間で「日中平和友好条約」が調印された。伸一の日中国交正常化提言から満10年。彼は、この条約を内実のともなう永遠のものにするとの誓いを胸に、9月11日、3年5カ月ぶりの第4次訪中へ。〝日中新時代〟の流れを広げ、万代の平和の礎を築こうと、文化・教育の交流に力を注ぐ。文化大革命が終わり、「四つの現代化」へ新出発した中国各地には、喜々とした若者の姿や明るい表情の女性があふれていた。
 17日、人民大会堂で歓迎宴が行われた。伸一は、日中の平和友好条約に盛られた、平和を守る精神をどのように構築していくか——その根本は「信義」であると訴える。この時、初めて会った周恩来総理夫人・鄧穎超は、語らいのなかで訪日の意向を発表する。
 19日、李先念党副主席は、伸一との会見で日本に1万人の留学生派遣や中米国交正常化のための条約を結ぶ用意があることなどを述べ、友好交流の展望が開かれる。その夜、伸一主催の答礼宴にも、鄧穎超が出席。周総理も、鄧穎超も、共に生涯、心の改革を忘れず、革命精神を貫く、〝革心の人〟であった。伸一は、鄧穎超と日本での再会を約すとともに、日中友好の永遠なる金の橋を築き、周総理との信義に生き抜くことを強く心に誓うのであった。

【勝利島】
 10月7日、学会本部に全国約120の島から同志が集い、第1回離島本部総会が行われる。伸一は、開会直前まで、沖縄支部長会の参加者や離島の代表などを、全力で励ます。
 1960年代、北海道・天売島や愛媛県・嘉島、鹿児島県の吐噶喇列島・奄美群島、伊豆大島など、各島々の同志は、決然と広布の戦いを起こしていった。多くの島で、無認識から非難中傷の嵐が吹き荒れ、村八分など人権さえも侵害されるなかで、〝わが地域の広布は、わが手で!〟と自らを鼓舞し、弘教を推進。地域に信頼を広げ、広布の道を切り開いてきた。74年(昭和49年)1月14日、離島本部の結成が発表されると、伸一は、石垣島や宮古島など、率先して島々を駆け巡ってきた。島へ激励に足を運ぶ離島本部の幹部にも、激励の伝言を託すなど心を砕いた。
 そして、「広布第二章」の支部制がスタートした78年(同53年)、遂に第1回離島本部総会が開催されたのである。
 伸一は、各島で孤軍奮闘する、遠来の友を心からねぎらう。そして、一人一人が、この島を支える柱となるのだとの決意に立ち、島の繁栄を願い、島民のために活躍する。島全体を希望に包み、歓喜に満たす太陽のような存在になってほしい。また、誰人に対しても仲良く、協調し、人間性豊かな日常の振る舞いで信頼を勝ち得ていってほしい——など、島の広布推進の要諦を語る。
 この総会をもって離島の同志は歓喜の出発を遂げる。広布誓願の決意を固めた同志にとって、各島々は、離れ島などではなく、久遠の使命を果たす天地であり、幸福島であり、勝利島となった。離島の新章節が幕を開いたのだ。

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第29巻

【常楽】
1978年(昭和53年)10月10日、山本伸一は、ハーバード大学名誉教授のジョン・K・ガルブレイス博士と会談。読書論や指導者論、また、互いのモットーなどについて、心通う率直な語らいのなかで、友情の絆が結ばれていく。対談を終えた伸一は大阪へ。翌11日、城東区の総会に出席し、熱原法難700年の意義をとどめ、現代における殉教の精神について指導する。
 同月21日、東京・板橋文化会館で行われた本部幹部会で彼は、学会歌の制作に込めた同志への真情を語ったあと、自ら作詞した新婦人部歌「母の曲」、茨城の歌「凱歌の人生」を発表する。その後も、埼玉には「広布の旗」、世田谷には「地涌の旗」、新潟には「雪山の道」、栃木には「誓いの友」と、次々に県・区歌を作詞して贈る。
 一方、宗門では、学会批判を慎むようにとの宗務院の通達は守られず、学会への中傷が続いていた。その背景には、宗門を利用し学会を操ろうとの野心に狂った弁護士・山脇友政の暗躍があった。横暴な宗門僧の言動に苦しめられる同志に、伸一は、間断のない励ましを続けながら、指導部には、生涯、広宣流布への闘魂を燃やし続け、常楽我浄の大勝利の人生を飾ってほしいとの思いを託し、「永遠の青春」を作詞。さらに、山梨には「文化と薫れ」を、大阪・泉州文化会館を初訪問した折には、車中で「泉州の歌」を完成させ、贈った。

【力走】
 11月18日、創価学会創立48周年を記念する本部幹部会が、東京・荒川文化会館で開催された。
 席上、伸一は、「七つの鐘」が翌1979年に鳴り終わることを述べ、80年から2000年までは5年単位で、前進の節を刻んでいく未来展望を語る。
 「11・18」を記念して発表した提言では、環境問題や「地方の時代と創価学会の役割」にも言及。「最も光の当たらない人びとのなかに、率先して入り、対話していくことが、私ども幹部に課せられた、当面、最大の課題」と記し、自らその範を示すかのように、これまで、あまり訪問できなかった地域へ行き、同志と会おうと行動を開始する。
 21、22日は神奈川の戸塚文化会館へ。30日には、大阪・交野の創価女子学園で、松下幸之助と4時間近く会談したあと、三重に向かう。翌12月1日、名張市を初訪問し、失明の危機を乗り越えた壮年本部長やその家族、地元の同志を激励。三重での諸行事を終えるや、大阪に戻り、さらに6年半ぶりの高知指導へ。四国の西部南端に位置する土佐清水市の高知研修道場も初訪問し、高知の全同志を激励したいと、力走を続ける。
 年の瀬も押し詰まった12月26日から28日も、栃木・群馬へ。〝今、戦わずして、いつ戦うのだ! 時は今だ! この一瞬こそが、黄金の時だ〟——伸一は、自身に言い聞かせるのであった。

【清新】
 1979年(昭和54年)、「人材育成の年」が明けた。「七つの鐘」の総仕上げとなる年の清新の出発にあたり、伸一は、1月9日には宮城県仙台市の東北平和会館で同志を激励。最も寒い季節に行かなければ、寒冷の地で暮らす人々の苦労も気持ちもわからないと、東北指導に赴いたのである。
 11日には、岩手県の水沢へ。翌日には、水沢文化会館の開館を記念する自由勤行会を開催し、「皆が〝地域の柱〟に!」と訴える。
 東日本大震災(2011年3月11日)で、地域の人々のために勇んで献身する学会員のなかには、この水沢文化会館での自由勤行会で伸一との出会いを結んだ人たちが少なくなかった。
 1月13日には、青森へ。青森文化会館では、10年前の約束を忘れず訪ねてきた、下北のかつての中等部員たちを歓迎。〝自分の立てた誓いを果たす。そこに人生の勝利を決する道がある〟と励ます。幹部会や懇談会の合間には、成人式を迎えたメンバーや役員の青年らと記念撮影。さらに小雪の舞うなか、会館周辺をまわり、路上で何人もの学会員を励ます。
 東京に戻った彼は、オックスフォード大学のウィルソン教授(宗教社会学者)と、宗教が担うべき使命などについて語り合う。
 伸一は、戸田城聖が東洋広布を託した九州からインドに出発しようと、九州研修道場を訪問。2月1日に行われた九州記念幹部会では、インド訪問団の壮途を祝して、タゴールが作詞・作曲したインド国歌「ジャナ・ガナ・マナ」(インドの朝)が合唱団によって披露される。

【源流】
 2月3日、鹿児島空港を発った伸一は、5年ぶりに香港を訪問。九竜会館を初訪問し、香港広布18周年を祝う記念勤行会に出席するなど、短い滞在時間を惜しむように、励ましに徹した。
 一行は、6日午前0時過ぎ、インド・デリーの空港に到着。深夜にもかかわらず招聘元のインド文化関係評議会(ICCR)の事務局次長やデリー市の市長ら多数が出迎えてくれた。その日の午後には、デリー大学で行われた図書贈呈式に出席。翌7日以降、デサイ首相やバジパイ外相等、要人との会見が続く。過密なスケジュールの合間を縫ってインドの同志との懇談会が行われた。全インドから集った約40人のメンバーに、伸一は、「ガンジス川の流れも、一滴の水から始まる。同じように皆さんは、インド広布の大河をつくる、源流の一滴、一滴となる方々です」と指導。〝ガンジスの一滴に〟——それは、インドの同志の合言葉となった。
 9日に図書贈呈式を行ったジャワハルラル・ネルー大学では、後にインド大統領となるナラヤナン副総長と友誼を結ぶ。2月11日、恩師・戸田先生の生誕の日にニューデリーからパトナに移動した伸一は、夕刻、ガンジス川のほとりに立ち、東洋広布を念願した恩師を偲ぶ。カルカッタ(後のコルカタ)では、タゴールの精神を継承するラビンドラ・バラティ大学に図書を贈呈し、創価大学との交流の道を開く。帰国後も伸一は、インド広布の悠久なる大河の流れを開こうと祈り、励ましを重ねていく。
 21世紀に入ると、仏教発祥の国に躍動する地涌の菩薩は15万人を超える。その世界広布新時代の〝源流〟が、躍動のしぶきをあげて走り始めたのである。

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