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  • 『新・人間革命』 要旨
  • 『新・人間革命』 各章リスト
  • 『人間革命』全12巻 要旨
  • 『人間革命』全12巻  各章リスト

『人間革命』全12巻 要旨

巻数

第1巻

1945(昭和20)年7月3日の夕刻、一人の男が、東京・中野の豊多摩刑務所を出獄する。軍部政府の弾圧によって投獄されていた、創価教育学会の理事長・戸田城聖である。そこで彼が見たものは、戦火に焼かれた国土であり、誤れる宗教・思想に導かれた国民の悲惨な結末であった。彼は決意する。“民衆の真実の幸福を築くには、日蓮仏法を広宣流布(こうせんるふ)していく以外にない”と。
やがて日本は敗戦。戸田は、壊滅した学会の再建に踏み出す。「創価教育学会」の名称は「創価学会」に変更され、彼の出版社「日本正学館」には四散していた学会員が集い始める。11月18日、獄中に殉教した師・牧口常三郎会長の1周忌法要が営まれ、獄中で地涌の菩薩の使命を自覚した戸田は、「広宣流布は私がやる」と決意する。
翌21年が明けると、戸田は数人の同志に法華経講義をスタート。彼を中心にした広布の歯車が、少しずつ動き始めた。

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第2巻

いかに遠くとも、広布(こうふ)の幾山河を踏破(とうは)するには、地道な一歩から始めるしかない。1946(昭和21)年9月、戸田は、栃木・群馬へ戦後初の地方折伏(しゃくぶく)を行い、“妙法の一粒種”を蒔(ま)くことに精魂を傾ける。
11月、新生日本の象徴たる日本国憲法の発布と時を同じくして、戸田理事長のもと、学会は戦後第1回の総会を開催する。社会では労働運動などが激化し、政治革命への期待が広がるが、“真実の革命は宗教革命なり”と知る戸田は、泰然(たいぜん)と布教の指揮をとる。その薫陶のなかで、学会の青年たちは日蓮仏法の正しさを実感していく。
翌1947(昭和22)年の8月14日、蒲田で行われた座談会に、山本伸一という青年が出席する。彼は尋ねる。「正しい人生とは」「真の愛国者とは」……。伸一は19歳、戸田は47歳。戸田は、懐かしき師である牧口との出会いを思い起こしながら、伸一との邂逅(かいこう)に運命的な絆を感じるのであった。その10日後の8月24日、伸一は入信する。

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第3巻

1948(昭和23)年元旦、同志の惰性を戒めた戸田の指導から、座談会と教学を軸に目覚ましい活動が始まった。戦時中に牧口会長が逮捕された伊豆の下田に赴いた戸田は、権力の魔性と獅子王のごとく戦った師を偲(しの)ぶ。
会員は皆、様々な人生の苦悩をかかえていたが、戸田の励ましを受けるなかで宿命を転換し、信心の歓喜と確信に燃えていく。
そのころ、伸一は、戸田の「日本正学館」に就職を勧められ、戸田と会い、即座に入社を決意する。彼は、このころの日記に、「革命は死なり。われらの死は妙法への帰命(きみょう)なり」と記していた。伸一には、戸田の弟子として、ともに宗教革命に殉ずる覚悟はできていたのであった。
同年11月、極東軍事裁判のA級戦犯への判決が宣告される。“勝者が敗者を裁く”というこの裁判を通し、戸田は戦争の本質を凝視(ぎょうし)する。

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第4巻

1行目に「生命論 戸田城聖」と書いた原稿を前に、しばし熟考する戸田。彼の脳裏には、仏とは生命なりと悟達し、地涌の菩薩の大使命を覚知した獄中での体験が去来する。生命論を基調とした仏法の新展開が始まろうとしていた。世界では朝鮮戦争が起こり、東西の対立は激化。人類を滅亡の危機に追いやる核軍拡競争の時代に突入していく。
一方、GHQが実施した「経済安定9原則」は民衆の生活を揺るがす。そのあおりで戸田の事業も悪化し、伸一が携わる少年雑誌も休刊。戸田は出版から金融業に転じるが、経営は逼迫(ひっぱく)し、彼は学会の組織に迷惑が及ばぬように学会の理事長を辞任する。その戸田を助けて、一人、懸命に奮闘したのが山本伸一であった。伸一は詠(よ)む。「古(いにしえ)の奇(く)しき縁(えにし)に仕へしを人は変れどわれは変らじ」--1949(昭和24)年から1951(昭和26)年にかけての苦境下に織り成された、この師弟不二の秘史は、後の学会大発展の淵源となっていく。

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第5巻

1951(昭和26)年5月3日、事業の苦難をすべて乗り越え、戸田は晴れ晴れと第二代会長に就任する。その推戴式の席上、戸田は75万世帯の大折伏を誓い、それができなければ遺骸を品川沖に捨てよと叫ぶ。
時あたかも日本は講和問題を巡って揺れていた。その行方を鋭く見つめつつ、学会は新出発したのである。この年4月の支部の統廃合、聖教新聞発刊をはじめ、「学会常住」の御本尊の授与、御書編纂(ごしょへんさん)の決定、男女青年部結成、宗教法人「創価学会」の設立等々、戸田は短時日の間に着々と広布の布陣を整えていく。7月11日の男子青年部の結成式では、彼は、「ここに集まった諸君のなかから次の会長が現れるだろう」と語る。
翌年には、伸一が組織の第一線に躍り出る。彼が指揮する蒲田支部は2月に初の200世帯を超える折伏を達成し、驀進(ばくしん)の突破口を開く。一方、東北の仙台支部が躍進著しく、戸田は地方拠点の強化にも力を注ぐ。

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第6巻

1952(昭和27)年4月27、28日には、総本山で「立宗七百年祭」が行われた。大聖人の立教開宗から700年の慶事である。この折、戦時中、神本仏迹論(しんぽんぶっしゃくろん)の邪義を唱え、牧口会長を獄死させる原因をつくった悪侶の笠原慈行が、総本山にいることが明らかになった。義憤(ぎふん)に燃えた青年部員たちは彼を詰問し、初代会長の墓前に謝罪させたのである。“狸祭り事件(笠原事件)”であった。
ところが、邪悪を責めたこの行為に対し、宗門の宗会は、本山を騒がせたとして、戸田会長の大講頭罷免(だいこうとうひめん)、登山停止という不当な処分を決議する。青年たちは師匠を守るために怒りをもって立ち上がり、宗会議員に個別に面談し、不当な決議の取り消しを求めていく。最終的に、この問題は、戸田の処分なしに解決を見るが、学会はこうした宗門の権威的体質と戦いながら広布を進めていくことになる。

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第7巻

1953(昭和28)年、学会は7万世帯の達成へ、年間5万世帯の折伏を掲げた。そのために、まず抜本的な人事と、支部中心から地区中心への指導体制の移行が行われた。伸一も第1部隊長に就任し、さらに文京支部長代理となり、信心の団結をもって、弱体の支部を一変させていく。
学会前進の原動力となったのは、戸田の「方便品(ほうべんぽん)・寿量品(じゅりょうほん)」の講義であった。自らの原点たる獄中の悟達に基づき、日蓮仏法の精髄を会員に説いた。我が身が妙法なることを、生命の永遠を、仏法即生活を--その感動と確信が同志の弘教に拍車をかけたのである。
また戸田は、男子部に水滸会、女子部に華陽会(かようかい)という人材グループをつくり、次代の指導者の育成に生命を削っていく。なかでも水滸会は、伸一を中心に、師とともに宗教革命に生涯を捧げることを誓い合う。
11月には学会本部が信濃町に移転し、次の飛躍の基盤も整った。

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第8巻

破竹の勢いで邁進(まいしん)する学会には、幾千幾万の功徳(くどく)の体験が花咲いていった。それは、暗い宿命に翻弄(ほんろう)され、泣き続けてきた無名の庶民が、経済苦・病気・家庭不和などの苦悩を克服し、偉大なる使命に目覚めゆく勝利の歴史であった。戸田は新本部の会長室で、その大切な一人一人を抱きかかえるように、渾身(こんしん)の個人指導を続ける。
1954(昭和29)年、伸一は青年部の参謀室長に就任し、“広布推進のスクリュー”としてフル回転を始める。その斬新な発想から、青年部1万人総登山や、文化祭の前身となる体育大会などが生まれていく。その頃、戸田は数名の東大生に法華経講義を始め、これが学生部の萌芽(ほうが)となる。水滸会への訓練も続き、東京・氷川で第1回野外研修が開催される。
折伏の拡大につれ、学会の存在はようやく社会の耳目を集め、他宗派やマスコミからの批判・中傷も高まっていく。

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第9巻

舞台は北海道・小樽。地元の学会の中心者である婦人たちが、日蓮宗(身延派)から改宗した会員宅を訪れると、学会の布教を阻止しようと目論む日蓮宗の僧侶に出くわした。双方の話し合いは、やがて法論開催の誓約に至る--北国で突発したこの事件は、創価学会と日蓮宗の公開法論となり、1955(昭和30)年の3月11 日、伸一の司会のもと、学会は完膚(かんぷ)なきまでの大勝利を収める。歴史的な“小樽問答”であった。
この春、戸田は、統一地方選挙に同志を推薦する。仏法を生命に刻んだ人格高潔な人材を政界に送り、政治を民衆の手に取り戻すためであった。伸一が指揮をとった東京都議会の大田区と横浜市議会の鶴見区が最高点で当選するなど、全国で53人の同志が当選した。
会員の折伏の情熱は一段と増し、広布の上げ潮となっていく。さらに新潟大火災を通して、会員が得た信心の実証がつづられる。

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第10巻

1956(昭和31)年初頭、伸一は一人、深い決意を秘めて大阪に向かう。学会は7月の参院選に推薦候補6人を決定し、大阪地方区は春木征一郎が立つことになった。大阪の学会世帯数は少なく、常識的には敗北必至の情勢であった。戸田は、その最高責任者として、伸一を派遣したのである。「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし」——伸一には、「信心で勝つ」との強い一念があった。強盛な祈りと最高の作戦・行動に徹した彼の激闘は、関西に「不可能を可能にする」勢いを生む。
そして5月には折伏11,111世帯の不滅の金字塔を打ち立て、参院選でも奇跡的な当選を実現させた。これが“常勝関西”の源流となる。
一方、学会全体では推薦6人中3人が当選。世間の注目を集めただけでなく、権力の圧迫の影もちらつき始める。「いやまして険しき山にかかりけり……」と詠(よ)んだ戸田は、伸一と壮大な広布の展望を語り合う。

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第11巻

人生の短い残り時間をいかに生きるのか--戸田は大きな転機を感じ始める。そして一切の事業から身を引き、広布の戦いに専念することを決意。1956(昭和31)年秋、伸一を責任者とした“山口開拓指導”が行われたのが突破口となり、爆発的な弘教の波が全国に広がっていく。
広宣流布とは、権力の魔性との戦いである。翌32年には、夕張の炭労(炭鉱労働組合)が学会との対決を打ち出し、組合所属の学会員を排斥(はいせき)しようとした。さらに、“炭労問題”が解決をみた直後の7月3日には、この年の4月に行われた大阪の参院補選を指揮した伸一が、選挙違反容疑で不当逮捕される “大阪事件”が起こる。学会の台頭に恐れを抱いた国家権力の陰険な弾圧であった。検察の取り調べは過酷を極め、“罪を認めなければ、戸田を逮捕する”など、脅迫にも等しいものであった。伸一は、衰弱した師の体を案じて、一身に罪を被(かぶ)る。すべてを裁判で明らかにしようと決めて。2週間後に釈放された彼は、大阪大会で「正義は必ず勝つ!」と獅子吼(ししく)。だが、無実を勝ち取るまで、4年半もの法廷闘争を要することになる。

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第12巻

打ち続く障魔の嵐との攻防戦は、戸田を著しく疲弊(ひへい)させた。
彼は、1957(昭和32)年9月8日、横浜・三ツ沢の競技場での青年部体育大会の席上、原爆使用者を人類の生存の権利を奪う「魔もの(サタン)」と断じた「原水爆禁止宣言」を、遺訓の第一として発表した。晩秋、戸田は病魔に倒れる。だが、広布達成への強き一念で病を克服していく。この年末、戸田の願業の75万世帯が達成される。
1958(昭和33)年3月、戸田は、総本山で大講堂の落慶祝賀の総登山の指揮をとる。16日には「広宣流布の模擬試験」となる儀式を行い、広布後継のバトンを伸一をはじめとする青年たちに託す。そして、「追撃の手をゆるめるな!」との叫びを遺言として、4月2日、戸田は逝去(せいきょ)する。師を失った悲しみを超え、実質的に学会の全責任を担う山本伸一。会員の間に第三代会長推戴の機運が高まり、1960(昭和35)年5月3日、戸田の分身の弟子は遂に会長となり、新たな黎明(れいめい)を開く舞台に立つ。

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