教育者 牧口常三郎

地理学者、教育者、そして創価学会の初代会長として、73年という生涯を生き抜いた牧口常三郎。「教育の目的は、子どもの幸福にある」との信念を貫いた、教育者としての姿をたどります。

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教育者・牧口の道のり 牧口の教育者への道のりを紹介します。

1900年 青年教師時代

青年教師時代 18~30歳(1889(明治22)年~1901(明治34)年)

1893(明治26)年に師範学校を卒業。成績優秀であった牧口は、同時に付属小学校の教師となり1つのクラスで異なる学年の児童を教える「単級教室」を担当する。
1896(明治29)年、牧口は、難関中の難関である旧制中等学校の教員資格試験であった文部省検定試験の地理科に、北海道で初めて合格。さらに1900(明治33)年には文検の教育科も受験し、見事合格を果たす。その後、28歳の若さで師範学校教諭、兼舎監となった牧口は、現場の教育者として、教育学の研究者として、その才能を発揮していくのである。

白金尋常小学校校長時代

学校校長時代 42~57歳(1913(大正2)年~1928(昭和3)年)

1913(大正2)年以降、牧口は、上京してからも名校長として多くの父母、児童たちから慕われた。一方で、独自の教育論を展開し、権力にへつらわないことから、迫害を受け、東京の尋常小学校の校長職を二度も左遷されている。
牧口は、校長生活の後半のほぼ10年を、白金尋常小学校で過ごす。白金小学校では、これまで温めてきた自分なりの教育理論を、思いのまま実践することができた。若い教師たちとも議論し、さらに自分の理論を深めていくこともできた。
牧口は、教育改革の方法への思索をひとつ、またひとつと、メモにしたためた。やがて、それは彼の教育思想に結実していく。牧口にとって、白金時代は、教育者としての黄金期であった。

「牧口常三郎」略年譜

  • 1871年(明治4年)旧暦6月6日 柏崎県刈羽郡荒浜村(現・新潟県柏崎市荒浜)に、父・渡辺長松、母・イネの長男として出生。幼名は、長七。
  • 1877年(明治10年)5月9日 叔父の牧口善太夫・トリ夫妻の養嗣子となる。
  • 1884年(明治17年) 北海道に渡る。
  • 1889年(明治22年)4月20日 北海道尋常師範学校入学。
  • 1893年(明治29年)3月31日 この年、名を常三郎と改める。北海道尋常師範学校本科卒業。同日同校附嘱小学校訓導となる。
  • 1895年(明治28年) 牧口熊太郎の二女・クマと結婚。
  • 1896年(明治29年)6月10日 文部省検定試験(地理地誌科)に合格し旧制中等学校の教員免許状を授与される。地理科では北海道初の合格者。
  • 1901年(明治34年) 北海道師範学校を退職。妻子、養母とともに上京。
  • 1903年(明治36年)10月15日 最初の著書『人生地理学』を文會堂から出版。
  • 1904年(明治37年) 弘文学院の講師となり、中国人留学生に地理を教える。
  • 1913年(大正2年)4月4日 東京市東盛尋常小学校第三代校長に就任。
  • 1920年(大正9年) 戸田甚一(後の戸田城聖)の訪問を受ける。その後、戸田を西町尋常小学校の臨時代用教員に採用する。
  • 1922年(大正11年)4月15日 東京市白金尋常小学校第九代校長に就任。
  • 1928年(昭和3年) 三谷素啓と出会い、思索と研究を重ねて、日蓮大聖人の仏法に帰依する。
  • 1930年(昭和5年)2月 自らの教育学説について戸田と協議し、その目的が価値創造であることから、「創価教育学」と命名する。
  • 1930年(昭和5年)11月18日 『創価教育学体系・第一巻』を冨山房から出版。発行所は、創価教育学会となっている。この日をもって、創価教育学会の創立の日としている。
  • 1931年(昭和6年)4月10日東京市麻布新堀尋常小学校校長に就任する。同校夜学校校長も兼務。
  • 1932年(昭和7年)3月31日 東京市麻布新堀尋常小学校の廃校に伴い、教職から離れる。
  • 1939年(昭和14年)12月23日 創価教育学会第1回総会に出席する。
  • 1940年(昭和15年)10月20日 創価教育学会第2回総会に出席し、講演する。会長牧口、理事長戸田以下の役員が正式に決定される。
  • 1943年(昭和18年)6月27日 神札を祀る件で大石寺から緊急で呼び出しを受け、戸田らと登山。「神札を一応受けるように会員に指示するようにしてはどうか」との申し渡しに、「神札は絶対に受けません」と断言し、下山する。
  • 1943年(昭和18年)7月6日 早朝、伊豆の加茂郡浜崎村須崎(現・下田市須崎)から刑事2人に連行され、下田署で治安維持法違反ならびに不敬罪の容疑で検挙される。
  • 1944年(昭和19年)11月18日 東京拘置所の病監で逝去(享年73)。20日、数人の親族知人が出席して葬儀を営む。

人格~慈愛の人・信念の人~ 教育者・牧口の人柄を表す、様々なエピソードを紹介します。

雪の降る日は

 牧口は、雪の降る日などは、登校してくる児童を出迎えた。下校時には、小さな子どもを背負い、大きな子どもの手を引いて、送っていった。また、学校では、湯を沸かして、アカギレだらけの子どもの手を洗ってやった。

子どもを学校に

 三笠小は、壊れた窓ガラスを厚紙で塞ぎ、風の侵入を防いでいるような、施設の補修も十分にできない恵まれぬ小学校であった。(中略)
 牧口は、ここでも児童の家を訪ね、子どもを学校に通わせるように、親を説得して回った。児童の将来のために、学ぶことの大切さを力説した。聞く耳をもたない親たちも、牧口の慈愛に満ちた真剣な訴えに、遂には登校させることを約束するのだ。

お腹をすかせた子に

 腹をすかせ、弁当も持たずに登校してくる子どものために、牧口常三郎は豆餅などを用意し、自由に食べられるようにした。当初、その費用は、すべて牧口が出していた。

教育への信念

 ある時、地元の有力者が、自分の子どもを特別扱いするように、校長の牧口に頼みに来た。断ると、その有力者は、東京市政を牛耳る大物政治家に、牧口の排斥を要請する。
 牧口には、〝教育にかかわりのない者が権力にものをいわせて教育に口を出すべきではない〟という、一貫した強い信念があった。大物政治家は、前々から、それが面白くなかったようだ。そこで、地元有力者の意向を聞き入れ、牧口を左遷する。
(『新・人間革命』第25巻「人材城」より)

優しい笑顔

 本を入れた風呂敷包みを抱え、少し前かがみに歩く牧口は、つねに何かを思索しているようだった。だが、登校する子どもに会うと、途端に相好をくずし、気さくに声をかけた。
 また、体が弱く欠席の多い子どもの姿を見かけると、「よかったですね。今日はこられたのですね」と心から喜んだ。その子が大きな荷物を持っていたりすると、「何か持ってあげましょう」と荷物に手をのばしたこともあった。

火鉢の前で

 ある寒い冬の日、病弱だった少女は、「校長先生が呼んでいますよ」と、用務員のおじさんに声をかけられた。校長室に行くと、大きな火鉢に、赤々と炭を燃やして待つ、牧口の姿が。
 「こっちにいらっしゃい」と牧口は、火鉢の側に呼ぶと、その子の冷え切った手を自分の手で包み、温めながら、体のこと、家のことなど、様々な話を聞いていった。そして、「元気なよい子になるのですよ」と、心から励ましたのであった。

子どもの失敗に

 校庭で石投げをしていて、誤って教室の窓ガラスを割ってしまった子どもがいた。当時、ガラスはとても貴重なものだった。真っ青になった子どもは、母親と共に校長室に謝りに行くと、牧口は次のように語りかけた。
 「石を投げて遊んでいるときは、まさか窓ガラスを割るとは思わなかったのでしょう。石は思いがけず遠くに飛ぶことがあるんです。それがよくわかったでしょう。これから気をつけるんですよ。」
 牧口は、どの子に対しても、いつも丁寧な言葉遣いをした。「○○さん」と、かならず「さん」づけで呼んだ。子どもをひとりの人格として認めていたのだ。

一番後ろから見守る

 牧口は一回の遠足にも真剣勝負で臨んでいた。野外の観察を通して、児童たちが何を学び取るか。どんな、よき思い出を残してあげられるか。児童の一番後ろについて、疲れている子供はいないかと、皆の様子を見守りながら歩くのが常であった。児童を大事にする、『人間主義の実践者』であった。

牧口常三郎の著作 牧口の教育者としての、研究の証ともいえる著書を紹介します。

人生地理学 (1~5巻)

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創価教育学体系 (1~5巻)

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動画「創価のはじまり」 教育者である牧口が、なぜ創価学会を創立するに至ったのか、動画で紹介しています。

動画再生時間:05分34秒

関連リンク

【参考】「創価教育の源流 牧口常三郎」(潮出版社)