【震災証言】“心の財”は壊せない――東日本大震災から10年

2021.03.08
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東日本大震災から10年。震災の教訓を風化させることなく後世に伝えていくため、岩手県釜石市在住の藤元裕一さん、福子さんが、被災体験を語ってくれました。
当時、地域の学会のリーダーとして同志の安否確認や、困窮する地域の支援に走り続けた藤元さん夫妻。
街の復興が進む中で、心の復興はぞれぞれであり、最後の一人が立ち上がるまで寄り添い、励ましを広げていく決意を述懐されています。

※本記事は、2021年1月24日に開催された創価学会東北青年部主催のオンライン証言会の映像内容を記事にしたものです。

午後2時46分、人生で経験したことがないほどの激しい揺れが

(以下証言:福子さん)
未曽有の大震災からまもなく10年。あの日から今日まで流した涙は数えきれません。
私たち夫婦は釜石市の浜町という場所に住んでいます。すぐそばにある釜石港には世界最大級の防波堤がありました。大津波はそれすらも越えて街を壊滅させました。

あの日、私は当時85歳になる母と、二人で自宅にいました。翌日から仙台に行くことになっており、目が見えない母のために、外出の支度をしていました。

午後2時46分、今までの人生で経験したことがないほどの激しい揺れに襲われました。
揺れが収まるとすぐに携帯電話を取り、仕事に行っていた夫に電話をしました。
「お父さん大丈夫?」
短い会話でお互いの無事を確認した後、電話がつながらなくなりました。

“津波が来るかもしれない”
母を連れて自宅の2階に上がり、窓から海の方を見ました。すると、遠くから「バリバリ、バリバリ」と轟音が聞こえてきました。

そして何と海側の家という家が流され、こっちに向かってくるのです。わが家は少し坂の上にあるのですが、この勢いでは、のみ込まれてしまうと覚悟しました。
すると、流されてきた車や家が防波堤の代わりになり、濁流を食い止めたのです。
わが家はすんでのところで事なきを得ましたが、津波は自宅の数メートル手前まで押し寄せました。

市街地への道は がれきでふさがれ、人も車も通れる道がありませんでした。
家族や同志に必死で電話をかけても一向につながりません。心の中で題目を唱え気持ちを落ち着かせ外に出ると、わが家の隣の料亭に300人もの人が避難してきました。
わが家にも家が浸水した近所の家族と同志のご夫婦に泊まっていただきました。

その日は本当に寒い日で、皆、身を寄せ合って寒さに耐えました。
夫は仕事で内陸の遠野市に行っていたため無事でしたが、道路が寸断され、その日は帰ってくることができませんでした。

一番心配だったのは海沿いのアパートに暮らしていた長女でした。
震災の2カ月前に生まれた初孫と共に、アパートの最上階まで上がり、3階まで到達した津波を逃れられたと知ったのは、翌日のことでした。

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