【震災証言】「最後の一人」が福光の笑顔輝くその日まで――東日本大震災から10年

2021.07.20
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東日本大震災そして福島原子力発電所の事故より10年。
帰還困難区域の一部解除、常磐自動車道、JR常磐線、相馬福島道路の全線開通など、福島の復興は徐々に進んでいます。
一方で、いまだ自由に行き来できない地域も残されており、現在も避難生活を強いられている福島県民はおよそ3万5千人。<※福島県災害対策本部による被害状況即報より(2021年7月)>
さらに風評被害や進まぬ廃炉の問題など、さまざまな課題が今なお続いています。

証言会では、広島幸雄さん・芳さん夫妻が登壇。福島第一原発からわずか6kmの大熊町の自宅から、中通り、会津地域へと避難し、現在は郡山市で暮らしています。

夫妻は、愛する故郷を離れざるを得なかった悔しさや不安と格闘しつつ、地域の学会のリーダーとして、友の激励に奔走。 最後の一人が、福光の笑顔を輝かせる日まで、励ましの日々を生き抜くとの誓いを語っています。

※本記事は、2021年5月30日に開催された創価学会東北青年部主催のオンライン証言会の映像内容を記事にしたものです。

「1日か2日で帰れるだろう」着の身着のまま、トラックに乗り込んだ

(以下証言:芳さん)
私たち夫婦が住んでいた福島県双葉郡大熊町で、東京電力福島第一原子力発電所の運転が開始されたのは、高度経済成長の真っただ中の1971年(昭和46年)ちょうど50年前のこと。

大熊町には1号機から4号機が、隣の双葉町には5・6号機があります。
かつて「陸の孤島」と言われた双葉地域は、この一大発電基地の完成を機に一変しました。

農家の長男として生まれ育った夫のもとに、私が嫁いだのは、まさに原発の建設期、夫婦で町が様変わりしていく様子を目の当たりにしてきました。
地域住民を対象にして、原発の見学会もありました。

太い鉄筋や厚いコンクリートで、覆われた発電所は「絶対に大丈夫」との説明を受けていました。誰もがその安全神話を信じて疑わなかったのです。
まさか数十年後、全町民1万1500人が、避難を余儀なくされる事態に遭うなど、想像もしていませんでした。

2011年3月11日、今までに経験したことのない揺れに襲われました。
情報を得ようとしても、停電のため テレビも電話も通じず、状況が全く分かりません。余震も続いていました。

明けて12日の早朝、町内の防災無線で突然、避難を指示する放送が流れました。
朝食も取らず、着の身着のままで近くの避難所に行くと、「原発が地震で危ないらしい」「これからバスで中通り方面に行くらしい」などの話を耳にしました。

それでも はっきりした情報はなく、1日か2日で帰れるだろうと軽い気持ちでいたのです。その後、待てども待てども、私たちの乗るバスは来ません。

ようやく昼過ぎになって、自衛隊員輸送用の幌(ほろ)付きトラックが到着。
隣組の人、近所に住んでいた娘家族と乗車し、中通りに通じる国道288号線に向かいました。

しかし、ものすごい渋滞で、普段は40分ぐらいのところを約5時間かかり、辺りが暗くなったころ、田村市にたどり着きました。
そこの公民館のテレビで、初めて原発の爆発を知ったのです。その後、隣町にある私の実家へ避難したものの、不安と焦りでいっぱいでした。

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