【戦争証言】私の沖縄戦「命どぅ宝」――摩文仁の丘の記憶

2020.08.05
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沖縄戦による日米両軍と民間人らを合わせた死者は20万人以上。軍人や住民も関係ない激しい戦いに、県民の4人に1人が亡くなりました。
沖縄戦の終結から75年、沖縄最後の激戦地・糸満市摩文仁の絶望の淵を生き延びた仲程シゲさん(90歳)が当時の体験を語ってくれました。

※本記事は、2020年7月19日に開催された創価学会青年部主催の「オンライン証言を聞く会(沖縄)」の映像内容を記事にしたものです。

兵隊にとられたわが家

太平洋戦争末期。アメリカは日本の本土攻略の拠点として、沖縄の占領を計画。その対抗措置として、日本各地から沖縄へ兵を派遣しました。しかし、これは時間稼ぎのための「捨て石」作戦にすぎなかったのです。

<日本の本土攻略計画>

──昭和19年(1944年)当時、私は16歳(数え年)で、高等科1年でした。
2学期から沖縄に兵隊さんが来て、学校は全部、兵舎に取られました。
学校の教室は、各集落の公民館やガジュマルの木の下で、青空教室で、みんな勉強しました。
私たちは高等1年、高等2年で交代で、高等1年が午前中勉強をしたら、私たちは午前中、兵隊さんの、この炊事の水ですね。学校の大きい井戸の水も、もうなくなって、隣の集落から水をくみに行きました。「水くみ班」という腕章着けて、2人で棒で担いで、働きました。
昭和20年(1945年)の3月頃から空襲がひどくなりましてね。わが家も3月1日に沖縄出身の新兵さんが家に入ってきまして、上座は兵隊さんが入って、那覇からも糸満からも編入して、20名ぐらいいましてね。朝、うちの母が芋とお汁出して、この兵隊さんたちは教育隊。
わが家の畑の丘に、球18804部隊の重砲大隊の大きな壕を作ったんですよ。この壕を作るまでは、爆弾は弾を木箱に入れて。私の屋敷は広かったから、もう周囲に勝手に置きましてね。弾か分かりませんよ、あの頃は。納屋も全部、壕に取られてしまった。

戦争は人間の心まで奪う

945年3月23日、米・英の連合軍は、沖縄県周辺に対する本格空襲を開始。4月1日には沖縄本島へ上陸。50万人もの勢力で沖縄に押しかけ、激しい地上戦が繰り広げられました。

──わが家にいた兵隊さんたちは、「第一線突入!」突撃して、わが家を出て行ったんですよ。その前に2人から遺言を頼まれましてね。「シゲちゃん 僕らは軍人だから生きる望みもない。死ぬ以外ないから、じいちゃん、ばあちゃんいるから、もし、あんたが生きて元気なって、僕の消息を告げてくれ。」で、わが家を出て行きましてね。

一般住民はガマと呼ばれる洞窟に身を潜めて、息を凝らしながらじっと耐えていました。その間、空からの攻撃に加え、陸からは銃や大砲、火炎放射器で襲われ、海からは艦砲射撃で狙われました。

<壕に隠れていた女性と二人の子供を見つけた米兵(沖縄県公文書館所蔵)>

──あれから防空壕生活が始まりましてね。食べ物も壕に入れて、炊事は壕の入り口に、木の枝で囲いを作って中には釜戸を作りましてね。もう命がけで芋を掘って、野菜を取って、昼は飛行機が飛ぶから、炊くのをね、夜炊いたんですよ。あれからどんどん飛行機が来て、兵隊たちは、「5月27日は日本の海軍記念日だから勝つ」と言っているんですよ。もう敵は目の前、本当にもう嘘ばっかり言われましてね。

この沖縄戦のアメリカの弾が、何千万発と落ちて、みんな溜池みたいに、ここの白いのが溜池になりました。

<雨水が溜まった弾痕(沖縄県公文書館所蔵)>

あれから私たちは、自分の壕を出ることになりまして。
わが家は、私と母と弟2人と親戚の15歳と5歳の(姉妹)。15歳の子は小児麻痺で歩けないんですよ。この2人置いてね、自分たちは出ていったんですよ。
出て、毎日死ぬ恐怖だから、あの2人のことをね、まったく忘れましたよ。
戦争は人間の心まで奪われます。人間じゃなくなります。

今でもシゲさんは、この姉妹を残していったことを後悔しています。 その後、いっそう激しくなる戦火を、玉城(たまぐすく)、具志頭(ぐしちゃん)、糸満と転々と避難する生活を強いられました。

──親子、私と母と弟で、食べ物もないから、芋くずですね。芋のデンプンと黒砂糖と、雨が降るから、この傘の雨汁でね、溜めて。これが命の水でした。