【被爆証言】「原爆を許さない!」――最後の被爆地・長崎から平和の声を届ける

2020.08.27
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1945年8月9日、アメリカ軍は長崎に第2の原爆を投下しました。街は一瞬で廃虚と化し、およそ7万人もの多くの命を奪い去りました。10歳の時に被爆した梅林二也さん(85歳)は、原爆症と闘いながら、その悲惨さを今日まで訴え続けてきました。

※本記事は、2020年8月9日に開催された創価学会青年部主催の「オンライン証言を聞く会(長崎)」の映像内容を記事にしたものです。

広島から疎開し、祖母のすすめで長崎へ

──長崎の三菱造船に勤めていた父の転勤で、昭和19年(1944年)、広島に家族と引っ越しました。私は当時10歳、広島市観音国民学校の4年生でした。広島市の爆心地から数キロの観音新町に、8歳と7歳の妹、4歳の弟、生後数カ月の妹と暮らしていました。空襲が激しくなると、学童疎開が始まりました。

広島に身寄りのなかった私は、両親と離れて、岡山県の田舎にあるお寺に、担任の先生と一緒に疎開をしました。初めての集団疎開は寂しく、戦時中は食料不足でいつも空腹でした。主な食事は山で採ってきたフキやワラビ、ゼンマイなどの山菜が入った雑炊。それでもおなかがすくので、よく山に生えていたイタドリの皮をむいて、酸っぱい茎をかじっていました。

時折、両親に手紙を出すことが許されました。しかし、引率の先生の検閲があり、両親が心配するから「寂しい」とか、不満は書いてはいけないと言われました。両親から慰問の品が届く度に、頭に浮かぶ両親の顔。「もう少しの辛抱」「戦争が終われば日常に戻れる」と自分自身に言い聞かせていました。そうした時、長崎にいた祖母が、「寂しいから誰か孫一人をよこすように」と手紙を書いてきました。そこで、私が長崎に行くことになりました。

8月9日、あの日はよく晴れていた

<原子爆弾さく裂15分後に撮影したもの 地上から写したものでは最も早い写真(長崎原爆資料館所蔵)>

──昭和20年8月9日、あの日はよく晴れていたと記憶しています。朝方、空襲警報が鳴ったので、外に出られず我慢していましたが、10時半ごろ、解除になりました。私は友人を誘い合って近くの「ひょうたん川」に向かいました。夢中で遊んでいると突然、稲妻のような閃光(せんこう)がピカッと光りました。何が起こったのか分かりませんでしたが、身の危険があればすぐに防空壕へ避難するように教えられていたので、私は急いで近くの防空壕に駆け込みました。その直後、「ドカーン」というごう音が響き渡りました。すさまじい衝撃波で、天井の土砂が崩れ落ちて、体は埋もれ、呼吸ができなくなるほどの、砂ぼこりにまみれました。

1945年8月9日、11時2分。アメリカ軍は長崎に第2の原爆を投下。広島への投下から、わずか3日後でした。上空500メートル付近で爆発した原爆は、広島の1.3倍ものすさまじい破壊力でした。

──恐怖心と土砂で動けず、そのまましばらくじっとしていると、一緒に遊んでいた子の母親たちが探しに来て、私たちを土砂から掘り出してくれました。その時、初めて外を見ました。防空壕に埋まってから1時間ぐらいたっていたでしょうか。あれだけ明るかった夏の空が、夜と間違えるほど真っ暗になり、紅蓮のような炎が、至る所で燃え盛っていました。

祖母の家に帰る途中、周りには屋根瓦が崩れ落ち、吹き飛ばされたガラスや家具が路上に散乱していました。私が住んでいた日の出町は爆心地から4・5キロ。自宅が山の陰にあったことが幸いし、家屋の崩壊は免れました。この山がなければ、川で遊んでいた私たちは爆風でひとたまりもなかったと思います。

<長崎・被害の概況 日の出町が梅林さんの自宅>

同じ爆弾が広島にも投下されたことを後で知り、広島の両親や弟妹たちが無事かどうか心配でたまりませんでした。「広島は全滅したらしい」と噂が入ると不安と焦りでじっとしていられず、私と祖母は長崎駅まで行くことにしました。もし生きていれば、長崎に戻ってくるはずだと思ったからです。