このページの位置情報
トピックス
創価学会の最新のニュースや話題を紹介しています。
ソウカネットムービー
創価学会の活動や理念、識者からの声など、さまざまな動画をご覧いただけます。
画像 YouTube SOKAnetチャンネル
ネットでVOD
教学用語検索
友人葬
創価学会 総本部
SOKAチャンネル VOD番組ガイド
SOKA ONLINE STORE

池田大作名誉会長の足跡

  • 信念と行動
  • 世界交友録
  • 講演・提言
  • 主な顕彰
  • 最近の著作案内

池田大作先生の行動の軌跡を、6つのテーマごとにご紹介します。

  • 平和への熱き思い
  • 教育こそ、生涯の事業
  • 行動する詩人
  • 「文明間対話」の軌跡
  • 戸田城聖の弟子として
  • 家族の絆

戸田城聖の弟子として

恩師との出会い

写真 戸田第二代会長
第二代会長戸田先生

昭和22年(1947年)8月14日。池田大作青年は、小学校時代からの知人に誘われた。「“生命哲学”の会があるから参加しないか?」
戦後、価値観の大きな変化に戸惑いながら、確固たる生き方を模索していた青年は、“生命哲学”と聞いて、その集まりに興味を持った。
会場へ行くと、座の中央に、度の強いメガネをかけた人物がいた。
彼の話は、仏法の講義のようであったが、身近な例を通して、日常生活や社会問題に鋭い洞察が加えられていく。その人物こそが、創価学会第二代会長・戸田城聖先生(当時理事長)であった。
座談ののち、青年は戸田会長に「正しい人生とは何か」など、いくつか質問をした。簡潔ながら、真剣な答えが返ってきた。
「正直いって、その時の私自身、宗教、仏法のことが理解できて、納得したのではなかった。戸田先生の話を聞き、姿を見て、『この人なら……』と信仰の道を歩む決意をした」(『私の履歴書』)
青年は、戸田会長の人格に魅せられた。戸田会長が、軍部政府に抵抗し投獄された事実も、背中を押した。運命の出会いから10日後の8月24日。池田先生は創価学会に入会。19歳であった。

このページのトップへ

苦闘の日々

写真 若き日の池田大作先生
若き日の池田先生

昭和24年(1949年)。戸田会長(当時理事長)が経営する出版社・日本正学館に入社した池田大作青年は少年雑誌の編集に全力を傾けた。
大手出版社による雑誌の復刊が相次ぐなかで、小さな出版社は苦戦。戸田会長は、出版事業を断念する。
信用組合の経営に乗り出し、事業の立て直しをはかった戸田会長だったが、戦後の経済混乱のあおりを受け営業停止に追い込まれる。多くの社員が去っていった。
給料の支払いはとどこおり、コートなしで過ごす冬。たくあんだけの夕食をとり、熱にうなされて目が覚める——。
それでも、池田青年は、苦境に立たされた師を支え続けた。
ある夜の、仕事の帰途。師と弟子は二人して川べりを歩いていた。池田青年は、当時の流行歌をもじって、ふと“こんな男に誰がした”と口ずさんだ。すると、戸田会長が振り返り「おれだよ」と言って破顔一笑した。「生きるか死ぬかのような苦闘の時である。私は『おれだよ』の一言に熱いものを感じた。どんな自分になろうと、私はついていこう」(『私の履歴書』)
命がけの死闘の日々。嵐に立ち向かう師弟の絆は、その強固さを増していったのである。

このページのトップへ

弟子としての奮闘

写真 青年部の野外研修での戸田会長と池田大作名誉会長
青年部の野外研修(山梨)にて

昭和26年(1951年)5月3日。第二代会長戸田先生の就任式が挙行された。事業の苦闘を乗り越えた戸田会長は、創価学会の世帯数75万を達成すると宣言。約3000人の会員数にすぎなかった、当時の創価学会。壮大な目標であった。
会場の片隅で、池田大作青年は、師の燃えるような決意を目の当たりにして深く心に期するものがあった。
翌昭和27年(1952年)1月。戸田会長から蒲田支部の支部幹事に任命された池田青年は、会員一人ひとりに即した励ましで、支部の空気を一変させる。2月、蒲田支部は、他の支部に倍する201世帯の弘教を達成した。
昭和31年(1956年)の年頭から、関西方面の責任者として指揮をとり、5月には大阪支部が1万1111世帯というかつてない弘教を成し遂げた。戸田会長の期待に存分に応える、池田青年の奮闘は学会全体の弘教の機運を大いに高めた。
戸田会長の就任7年目となる、昭和32年(1957年)の末。ついに、75万世帯の弘教は達成されたのである。師と弟子が一体となって打ち立てた、金字塔であった。

このページのトップへ

戸田会長の逝去

写真 式典での戸田先生と池田大作先生
第二代会長戸田先生と式典にて

昭和33年(1958年)3月16日。6000人の青年が集結した記念式典は、迫りくる死を自覚した戸田会長が、青年に後事を託す儀式となった。
後年、当時を振り返って池田大作先生は述懐する。
「この年の三月、一ヶ月間にわたり、先生のご生涯の総仕上げともいうべき、数々の行事が続いていた」「お体の具合は甚だ悪い。何度も医師を呼ばねばならぬ状況であった」(「随筆 新・人間革命」)
式典で戸田会長は、衰弱した体をものともせず、生命を振り絞るように叫んだ。「今日、私は君たち青年に託しておきたい。未来は君たちに任せる」。戸田会長の横には、式典の司会をつとめた池田青年室長(当時)が、片時も離れず付き添っていた。
2週間後の、4月2日、午後6時30分。戸田会長、逝去。“この世から、悲惨の二字を無くしたい”と、命をかけた闘争を貫いた58年の尊き生涯であった。
池田先生は、その日の日記に記した。
「この一瞬。われ、筆舌に尽くし難し」最愛の師との別れに、痛切な悲しみを感じながら、しかし、愛弟子は一人立つ。「戦おう。師の偉大さを、世間に証明するために」

このページのトップへ

師の構想実現

写真 第三代会長就任式
第三代会長就任式

昭和35年(1960年)、第三代会長池田大作先生の就任式が両国の日大講堂で挙行された。戸田先生の就任の日と同じ、5月3日であった。
その5か月後の10月。32歳の若き会長は、初の海外訪問となる北・南米の旅に出発。胸のポケットには、戸田先生の写真があった。
戸田先生の構想を具現化する、池田先生の歩みは続いた。世界192か国・地域へと拡大したSGI(創価学会インタナショナル)の連帯。昭和43年(1968年)の創価学園の開学を皮切りとする、「創価教育の学校設立」の構想実現。戸田先生の「原水爆禁止宣言」の精神に基づく、核廃絶への署名運動や「核の脅威展」の開催——。
平成8年(1996年)には、戸田記念国際平和研究所を創設。「(研究所の創設は)いわば二十世紀の私の活動の総仕上げともいうべき事業であり、これで師の構想は、ひとまず、すべて実現し得たとの感慨があった」(『大道を歩む IV』)
同年、池田先生はアメリカ・コロンビア大学での講演で語った。
「今の私の98%は、すべて、恩師より学んだものであります」
師の偉大さの宣揚を誓った弟子が、歩みを止めることはない。

このページのトップへ