
ここでは、信心実践の糧となる御書の御文を紹介します。
「そもそも、今の時、法華経を信ずる人あり。あるいは火のごとく信ずる人もあり、あるいは水のごとく信ずる人もあり。聴聞する時はもえたつばかりおもえども、とおざかりぬればすつる心あり。水のごとくと申すは、いつもたいせず信ずるなり」(「上野殿御返事〈水火二信抄〉」、新1871㌻・全1544㌻)
<通解>
さて今の時、法華経を信ずる人がいる。あるいは火のように信ずる人もいて、また水の流れるように信ずる人もいる。(火のように信ずる人というのは、法門を)聴聞する時は燃え立つように思うけれども、時が経つにつれて、それを捨てようとする心を起こしてしまう。水のように信ずる人というのは、常に退することなく信ずる人をいう。
「月々日々につより給え。すこしもたゆむ心あらば、魔たよりをうべし」(「聖人御難事」、新1620㌻・全1190㌻)
<通解> 月々日々に、信心を強めていきなさい。少しでもたゆむ心があれば、魔がそのすきに付けこんでくるであろう。
「ただ心こそ大切なれ。いかに日蓮いのり申すとも、不信ならば、ぬれたるほくちに火をうちかくるがごとくなるべし。はげみをなして強盛に信力をいだし給うべし」(「四条金吾殿御返事〈法華経兵法の事〉」、新1623㌻・全1192㌻)
<通解>
ただ心こそ大切である。いかに日蓮が祈っても、あなた自身が不信ならば、濡れている火口に火を打ちかけるようなものである。勇んで強盛に信力を出しなさい。
「法華経を信ずる人は冬のごとし。冬は必ず春となる。いまだ昔よりきかずみず、冬の秋とかえれることを。いまだきかず、法華経を信ずる人の凡夫となることを」(「妙一尼御前御消息〈冬は必ず春となるの事〉」、新1696㌻・全1253㌻)
<通解>
法華経を信じる人は冬のようなものである。冬は必ず春となる。昔から今まで、聞いたことも見たこともない、冬が秋に戻るということを。(同じように)今まで聞いたことがない、法華経を信じる人が仏になれず、凡夫のままでいることを。
「苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思い合わせて南無妙法蓮華経とうちとなえいさせ給え。これあに自受法楽にあらずや」(「四条金吾殿御返事〈衆生所遊楽御書〉」、新1554㌻・全1143㌻)
<通解>
苦を苦と覚り、楽を楽と開き、苦しくても楽しくても南無妙法蓮華経と唱えきっていきなさい。これこそ自受法楽(=自ら法楽を受ける)ではないか。
「桜梅桃李の己々の当体を改めずして無作の三身と開見すれば、これ即ち『量』の義なり」(「御義口伝」、新1090㌻・全784㌻)
<通解>
桜は桜、梅は梅、桃は桃、李は李と、おのおのの当体を改めず、そのままの姿で、無作の三身(=仏の境涯)と開きあらわしていくことが、(無量義の)「量」の義である。
「蔵の財よりも身の財すぐれたり、身の財より心の財第一なり。この御文を御覧あらんよりは、心の財をつませ給うべし」(「崇峻天皇御書〈三種財宝御書〉」、新1596㌻・全1173㌻)
<通解>
蔵に蓄える財宝よりも身の財がすぐれ、身の財よりも心に積んだ財が第一である。この手紙をご覧になってから以後は、心の財を積んでいきなさい。
「異体同心なれば万事を成じ、同体異心なれば諸事叶うことなしと申すことは、外典三千余巻に定まって候。殷の紂王は、七十万騎なれども、同体異心なればいくさにまけぬ。周の武王は、八百人なれども、異体同心なればかちぬ。(中略)日蓮が一類は、異体同心なれば、人々すくなく候えども、大事を成じて一定法華経ひろまりなんと覚え候。悪は多けれども、一善にかつことなし。譬えば、多くの火あつまれども、一水にはきえぬ。この一門も、またかくのごとし」(「異体同心事」、新2054㌻・全1463㌻)
<通解>
異体同心であれば万事を成し遂げることができるが、同体異心であれば諸事万般にわたって叶うことはないことは、外典の三千余巻の書物にも定まっていることである。殷の紂王は、七十万騎であったが同体異心であったので、戦いに負けてしまった。周の武王は、わずか八百人であったけれど、異体同心であったので、勝ったのである。(中略)
日蓮の門下は異体同心であるので、人々は少ないけれども、大事を成し遂げて、必ず法華経が広まるであろうと考えるのである。悪は多けれども一善に勝つことはない。例えば、多くの火が集まっても一水によって消えてしまう。この一門もまた同様なのである。
「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちい給うべし。(中略)ふかく信心をとり給え。あえて臆病にては叶うべからず候」(「四条金吾殿御返事〈法華経兵法の事〉」、新1623㌻・全1192㌻)
<通解>
いかなる兵法(どんな方策、戦いの方法)よりも法華経の兵法(=信心)を用いていきなさい。(中略)深く信心を起こしなさい。臆病であっては何事も叶わないのである。