平和への願いをこめて

「平和への願いを込めて」とは

「平和への願いを込めて」のページでは、創価学会が長年にわたり取り組んできた被爆証言集・反戦出版活動で収録されたインタビューをもとに、広島・長崎で実際に被爆を経験された方々の証言や、看護師として、また幼い子どもとして戦時下を生き抜いた女性たちの戦争体験を映像で紹介します。

製作者のことば3:58

製作者のことば

この映像記録は、創価学会女性平和委員会が推進する「戦争体験の継承記録運動」の一環として、終戦・被爆の60周年の節目に全国約180人の女性の体験を取材し、代表31名の証言を収録したものです。

被爆・広島 はじめに1:08

被爆・広島 はじめに

1945年8月6日、午前8時15分、広島に原子爆弾が投下され、一瞬にして広島は死の街と化しました。大量の放射能、強烈な爆風、4000度にも達した爆心地の表面温度。一命をとりとめた人も差別や原爆症に現在も苦しめられています。

被爆・広島(1)8:10

被爆・広島(1)

塩田キクエさんは、爆心地から2キロの自宅で当時16才の妹と共に被爆しました。10才の弟は大火傷を負い、14才の妹は亡くなりました。

被爆・広島(2)4:38

被爆・広島(2)

吉本ミチヨさんは当時、看護学生でした。原爆が投下された翌日、救援のために医師と共に広島に入り、不眠不休の活動の中、喉の渇きに耐えきれず放射能に汚染された水を飲み被爆しました。

被爆・広島(3)7:27

被爆・広島(3)

小塚綾子さんは、爆心地から3キロの職場で被爆しました。奇跡的に無傷でしたが、爆心地を通ってようやくたどり着いた実家で黒い雨にあたったトマトを食べ、その晩から体調を崩しました。

被爆・広島(4)5:39

被爆・広島(4)

広島で被爆した方の中には多くの中国人、韓国人も含まれていました。郭福順さんは、被爆者、そして韓国人であるが故の差別や原爆症と闘いながら、結婚し子育てを。現在は語り部として若い世代に原爆、戦争の悲惨さを語り続けています。

被爆・長崎 はじめに1:10

被爆・長崎 はじめに

1945年8月9日、午前11時02分。広島に続き、長崎に原子爆弾が投下されました。一瞬にして多くの人々が被爆し、尊い命が奪われました。

被爆・長崎(1)6:26

被爆・長崎(1)

現在、千葉県に住んでいる高田末子さんは、長崎県伊良林町の自宅で被爆しました爆心地から3.5キロの地点でした。

被爆・長崎(2)2:50

被爆・長崎(2)

幸里愛子さんは、学徒動員として働いていた長崎市内の兵器工場で被爆しました。爆心地からわずか1.2キロの地点でした。

被爆・長崎(3)4:26

被爆・長崎(3)

橋本トヨミさんは、21才の時に子どもと共に自宅で被爆しました。 現在は、原爆の語り部として、若い世代に体験を語り続けています。

被爆・長崎(4)2:57

被爆・長崎(4)

松本初美さんは、1946年生まれ。原爆が投下された当時はまだ、妊娠3か月だった母親のお腹の中でした。被爆者二世としての体験を語ります。

被爆・長崎(5)3:01

被爆・長崎(5)

大塚和江さんは、朝鮮半島から強制連行された父と長崎で被爆した母のもとに、被爆二世として生まれました。「人種差別」と「被爆」という二重の苦しみを感じながら人生を生きてきました。

沖縄戦 はじめに1:11

沖縄戦 はじめに

第2次世界大戦中、熾烈な地上戦が展開された沖縄。沖縄戦は、「鉄の暴風」とよばれた集中砲撃、捕虜になることを恐れた島民たちの「集団自決」、10代の少女たちを従軍看護婦に動員し、死に追いやった「ひめゆり部隊」など、多くの悲劇をうみました。

沖縄戦(1)4:03

沖縄戦(1)

1945年4月、アメリカ軍は沖縄本島に上陸。棚原富士子さんは、もっとも激戦地であった沖縄本島の南部を家族16人で逃走。家族が相次ぎ亡くなる中、一人血まみれになりながら逃げました。

沖縄戦(2)4:38

沖縄戦(2)

古波蔵重子さんは、沖縄戦の当時、18才でした。米軍の激しい攻撃の中を家族と共に逃走し、目の前で母親を亡くしました。

沖縄戦(3)3:57

沖縄戦(3)

山田信子さんは7人家族で山の中や谷底を逃げ続けましたが、上陸したアメリカ軍の攻撃により目の前で両親と弟を亡くしました。

沖縄戦(4)4:11

沖縄戦(4)

比嘉アキさんは宮崎に子どもたちを疎開させるため“学童疎開船”に乗り、翌日、アメリカ軍の潜水艦の魚雷を受け船は沈没。学童737人を含む1,484人(沖縄県援護課資料)が亡くなり、比嘉さんの子どもも犠牲になりました。

沖縄戦(5)4:34

沖縄戦(5)

八重山地域の住民は、マラリア有病地帯へ強制疎開させられたといわれています。その結果、波照間島の島民の約30%(沖縄県援護課資料)がマラリアを発病して亡くなりました。大泊ミツフさんは家族を次々と亡くし、たった一人生き残りました。

引き揚げ はじめに1:13

引き揚げ はじめに

1945年8月9日、ソ連軍が参戦すると満州と朝鮮半島にいた日本人は日本を目指して、数百キロにわたる過酷な逃避行を開始しました。

引き揚げ(1)3:50

引き揚げ(1)

黒澤民子さんは、父親が満州鉄道に勤務することになり、チチハルに渡りました。終戦からわずか半年の間に、母、夫、父を相次ぎ亡くしながらも、2人の子どもと共に帰国することができました。

引き揚げ(2)5:50

引き揚げ(2)

澤田茂子さんが、満州の新京に渡ったのは結婚のためでした。終戦と同時に身重の体で逃避行を開始し、朝鮮半島の平壌の避難所で出産。多くの人に助けられ、奇跡的に子どもと共に帰国しました。

引き揚げ(3)2:08

引き揚げ(3)

中尾シズカさんは、引き揚げの過酷な状況の中、誰もが自分の身を守ることで精一杯でした。中尾さんは満州からの引き揚げの過酷な状況のなかで2人のお子さんを亡くした体験を語ります。

引き揚げ(4)4:27

引き揚げ(4)

営林署の署長として赴任した父と共に朝鮮半島に渡った加藤レイさんは、終戦の翌年、38度線を目指して200キロもの道のりを歩き通し、その道中、祖母を亡くしました。

引き揚げ(5)3:08

引き揚げ(5)

戦前、低迷する日本経済を背景に多くの農民が満蒙開拓団として満州国へ渡りました。全国で最も多くの満蒙開拓団を送った長野県の出身である中野つや子さんは、子ども心に戦争の悲惨さを刻み付けました。

引き揚げ(6)4:25

引き揚げ(6)

明正尚美江さんは、朝鮮半島から日本へ向かう引き揚げ船の中で、多くの人が栄養失調や病気による衰弱で、祖国を目の前にして亡くなっていったことが今も忘れられないと語ります。

戦火の中の看護婦たち はじめに0:53

戦火の中の看護婦たち はじめに

従軍看護婦。彼女たちの多くが軍隊と共に戦地に赴き次々と運ばれてくる負傷兵を看病しては、その最期を看取っていきました。一方、国内の病院でも医薬品が欠乏しそこで働く看護婦(現在は看護師)たちは劣悪な環境での仕事を強いられたのです。

戦火の中の看護婦たち(1)5:51

戦火の中の看護婦たち(1)

杉本和子さんは、太平洋戦争中の1943年に日本赤十字社の実地研修生として、中国東北地方の陸軍病院に配属されました。

戦火の中の看護婦たち(2)3:29

戦火の中の看護婦たち(2)

里口とよかさんは三重県尾鷲市の紀勢病院の総婦長でした。日本の軍艦がアメリカ軍に攻撃され、多くの負傷兵が湊から担ぎこまれて来ました。しかし、医薬品もなく満足な治療も受けられずに命を落としていく兵士たちを無念の思いで看取りました。

戦火の中の看護婦たち(3)6:36

戦火の中の看護婦たち(3)

西中和子さんが勤務していた東京の病院では、医薬品が欠乏し、伝染病が蔓延。患者だけでなく友人の看護婦たちも次々と感染し亡くなっていきました。

戦時下の女性と子どもたち はじめに0:57

戦時下の女性と子どもたち はじめに

1941年、当時の小学校は戦時体制に応じた初等教育を目的とする「国民学校」に変わり、子どもたちは大きな影響を受けました。 また女性たちは愛する夫や息子を戦地に奪われ、残された家族を守るため、度重なる空襲の中を必死で闘いました。

戦時下の女性と子どもたち(1)5:47

戦時下の女性と子どもたち(1)

1944年8月、国民学校5年生だった小川和美さんは空襲を避けるため、名古屋市内から郊外の弥冨町に学童疎開しました。彼女のような疎開先に親戚のいない子どもたちは「学童集団疎開」のもと、参加を義務づけられました。

戦時下の女性と子どもたち(2)4:30

戦時下の女性と子どもたち(2)

岩手県の国民学校に通っていた久慈満代さんは「教育勅語」などを暗記させられ、徹底した軍国主義教育を受けたことを覚えています。多くの子どもたちが「日本は神の国」「日本は絶対に負けない国」と口々に答えるような時代でした。

戦時下の女性と子どもたち(3)2:28

戦時下の女性と子どもたち(3)

当時は出征前、戦地に行くの人を安心させるために必ず許婚をする習慣がありました。大城春子さんは19才の時に婚約し、婚約者を戦地に送り出しました。3年後、婚約者の戦死の知らせを受け、悲しみにくれました。

戦時下の女性と子どもたち(4)6:01

戦時下の女性と子どもたち(4)

「赤紙」が到着すると、4~5日後には受取人は戦地に赴かなければなりませんでした。金子悦子さんは男性が次々に出征した後、残された女性たちが銃後を必死で守る姿を目の当たりにしました。

空襲 はじめに1:02

空襲 はじめに

1944年夏、アメリカ軍はサイパン、グアムなどマリアナ諸島を制圧し、11月からはここを基地としてB-29による日本本土への爆撃を開始しました。 相次ぐ空襲の犠牲になったのは、多くの場合、お年寄り、女性、そして子どもたちでした。

空襲(1)2:45

空襲(1)

斉藤静子さんの住む北海道室蘭市は沖合いにあったアメリカ軍空母の艦載機から空襲を受け、翌日も、軍需工場を標的にした艦砲射撃が市街地を襲い、多大な被害を受けました。

空襲(2)6:28

空襲(2)

1945年6月7日、大阪府北東部上空に400機を超えるB-29爆撃機が飛来し、1時間半にわたる爆撃で多くの尊い命が奪われました。 青木千枝子さんは家族8人とともに避難していた防空壕を直撃されました。

空襲(3)5:05

空襲(3)

竹内輝子さんが13才の頃働いていた愛知県・豊川海軍工廠は、アメリカ軍の空襲を受け、約30分間で2,500人以上が亡くなりました。工廠の全作業員の約8割は強制的に動員された若者たちで、12才~13才の児童まで含まれていました。

空襲(4)4:16

空襲(4)

1945年7月4日、アメリカ軍のB-29爆撃機が香川県高松市を爆撃。 1000人を超す尊い命が奪われました。 多田澄子さんは幼い妹を背負い、2人の弟の手を引き、逃げました。

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