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『新・人間革命』要旨6巻~10巻

第6巻 (「宝土」「遠路」「加速」「波浪」「若鷲」の章)

【宝土】

1962(昭和37)年1月29日、伸一は中東のイラン、イラクを初訪問。
イスラム教の開祖・マホメットについて語り、他宗教との対話の重要性も話題に。いずれ、イスラム教の人々も、仏法との共通点を見いだし、共感を示すだろう——訪問はその確信を深めるものだった。

【遠路】

一行はトルコからギリシャへ。伸一はソクラテスとプラトンの生涯に思いをはせる。2人の姿は、学会の師弟と二重写しに。
さらにエジプトを経て、パキスタン、タイ、香港へ。タイと香港では支部を結成。伸一は世界広布のくさびを着実に打っていく。

【加速】

博多湾に面した、粗末な家が密集する“ドカン”地域。人生の辛酸をなめ尽くした人々の間にも、信心による宿命転換のドラマが進んでいた。
伸一は、会長就任2周年の5・3を迎える。この2年で倍増した学会は、広布の戦いを加速する。

【波浪】

7月の参院選に向けた支援活動に、妨害や中傷が頻発した。そうしたなか、公政連は9人全員当選。その勝利が波浪を呼び、秋田・尾去沢鉱山と長崎・中里炭鉱で、労組による不当な学会員圧迫事件が発生。組合除名処分撤回に至るなど、闘争の経緯が語られる。

【若鷲】

7月22日に行われた学生部総会。学生部旗と部歌が披露され、14の部が結成された。部員数も既に1万人を突破。新時代の到来をとらえ、伸一は学生部の本格的な育成を決意。
それは自らが、日蓮大聖人の仏法の真髄である「御義口伝」を講義することだった。

第7巻 (「文化の華」「萌芽」「早春」「操舵」の章)

【文化の華】

1962(昭和37)年10月22日、アメリカのケネディ大統領は、キューバにソ連の攻撃用ミサイルの発射基地が建設されていると演説。

米ソ間の緊張は一気に高まり、人類を全面核戦争の瀬戸際に追い込むキューバ危機がぼっ発した。息づまる攻防のなか、28日、米ソ両首脳は破局の回避で合意する。

11月、恩師に誓った300万世帯という平和勢力を達成。そうした時、伸一のもとにケネディ大統領との会見の話がもたらされる。

【萌芽】

1963(昭和38)年1月8日、伸一はアメリカを最初に、欧州・中東・アジアを巡る世界一周の平和旅へ。アメリカではハワイ、ニューヨークに支部が誕生し、ロサンゼルスを加え、3支部へと発展。

生命を削る思いで一人一人の友を激励する伸一に、相呼応して新たな人材群が信心に奮い立つ。目覚ましい成長の姿を示しながら、各地に地涌の若芽が育ちゆく。

【早春】

欧州でも、ヨーロッパ総支部・パリ支部が結成。伸一の間断なき激励行は、スイス、イタリアでも。アジアにも世界広布の流れが着実に広がり、香港で3地区が結成。

1月27日、帰国の途に就く伸一は、飛行機のエンジントラブルのため、予定にはなかった台北(台湾)経由の便に変更。空港には、ひたすら彼の訪問を待ち望んできた友が集い、劇的な出会いが実現した。

【操舵】

1月24日夜、総本山を下山し、新潟駅まで帰る会員約900人が乗る団体列車が豪雪のため、宮内駅で立ち往生してしまう。地元同志は、おにぎりや豚汁など真心の支援を続け、車内の友も懸命に耐え抜く。創価の同志愛が輝きを増すなか、約93時間ぶりに運転が再開される。

4月9日、台湾の台北支部は政府の命令により解散。メンバーは弾圧の嵐にも「冬は必ず春となる」と耐え、27年後、晴れて認可を受ける。

第8巻 (「布陣」「宝剣」「清流」「激流」の章)

【布陣】

1963(昭和38)年5月、伸一は、翌年に迫った恩師戸田城聖の7回忌を目指し、広布の布陣の強化を決意する。

幹部の胸中から官僚主義を排し、学会精神をみなぎらせようと、第25回本部総会等で次々に新たな人事を発表。伸一は、真正の同志の育成を期す。

6月、伸一は、徳之島を経由して、奄美大島を初訪問。総支部を結成するとともに、命がけで離島広布に戦ってきた庶民の英雄を全魂込めて激励し続ける。

【宝剣】

7月、男子部幹部会に出席した伸一は、戸田城聖の7回忌を期して、「本門の時代」に入ることを宣言する。女子部幹部会では、男子部・女子部の部員100万達成を提案。

関西に赴いた伸一は、京大生への「百六箇抄」講義を始め、一人一人を広布の“宝剣”へと育てていく。

そんな折、聖教紙上に、日達法主から僧侶・法華講への「訓諭」が載った。背景には、広布の息吹もなく、学会を批判する宗門の腐敗が——邪悪に対し伸一は、敢然と戦いを挑む。

【清流】

1963(昭和38)年7月28日、言論部の第1回全国大会。伸一は“今こそ、民衆救済のために、正義の言論の剣をとって前進しよう”と訴え、新たな言論運動を提示する。

8月度の男子部幹部会では「世界広布の歌」が発表。9月には信濃町の新学会本部が落成。10月には民音の発足……。こうした前進のなか、ある地方で、幹部の金銭詐取(さしゅ)事件が発覚。幹部の不祥事を通し、広布の組織を撹乱(かくらん)する魔の本質を究明する。

【激流】

1963(昭和38)年11月23日、ケネディ大統領暗殺の激震が世界を走る。伸一は、彼の大統領としての“1000日の戦い”に思いを馳せる。この年の12月には学会は400万世帯に。39年を「団結の年」と決定。

39年1月、学会の代表が韓国を訪問することになっていたが、渡航不許可の通知が届く。韓国には、かつて日本が行った非道な侵略と支配の歴史がある。そのため、学会に対しても根強い誤解があり、韓国に芽生えた学会組織に弾圧が襲う。だが、韓国の同志は、迫害の冬を耐え、粘り強く信頼を勝ち取り、社会で実証を示していく。

第9巻 (「新時代」「鳳雛」「光彩」「衆望」の章)

【新時代】

1964(昭和39)年4月、山本伸一は、師・戸田城聖の七回忌を一切に大勝利して迎え、荘厳に落成した大客殿では、その法要が営まれた。

この時を期して、学会は、仏法を本格的に社会に展開する「本門の時代」に入ったのである。

5月の本部総会では、新時代の目標として、正本堂建立、6百万世帯の達成などを発表。さらに政党の結成も視野に入れ、公明政治連盟の新段階への前進を決議する。

総会後、伸一は、直ちにアジア、オセアニアへ出発し、オーストラリアでは支部を結成。帰国直後、インドのネルー首相死去の悲報が。一日も早く、人類の融合と平和の哲学を世界に流布しなければと、伸一は誓うのだった。

【鳳雛】

6月、高等部と中等部の設置が発表され、大きな感動と期待が広がった。
まず高等部が、各地に順次結成。次いで翌年1月に中等部、同9月には少年部が結成される。

伸一は、この初々しい若木こそが、二十一世紀を担う大樹であると、矢継ぎ早に成長への光を注ぐ。ある時は「鳳雛よ未来に羽ばたけ」と指針を贈り、ある時は、直接、代表に御書講義を。またある時は、皆が喜ぶならと、何曲も何曲も学会歌の指揮をとる……。

命を削って激励を続ける師の心に触れ、鳳雛たちは尊き使命に奮い立つ。ここから、創価後継の大河の流れは一段と開かれていった。

【光彩】

青年が先駆し、広布拡大の喜びが広がるなか、6月末の学生部総会の席上、伸一は、待望の「創価大学」の設立構想を発表する。

10月、伸一は、再びアジア、そして欧州を歴訪。ヨーロッパ広布を担う、宝の同志たちを全力で激励する。初めて東欧圏に足を踏み入れた伸一は、人々の暮らしぶりから、人間性を抑圧する社会主義体制の矛盾について思索を巡らす。

伸一は、さらに北欧へ。全生命を振り絞り、一念に億劫の辛労を尽くして、一人一人への励ましを続ける旅だった。

【衆望】

世界が拍手喝采した東京五輪。日本は一流国入りをしたかに見えたが、高度成長の陰で、社会福祉の立ち遅れなど、民衆を忘れた貧困な政治が続いていた。

“政治を民衆の手に取り戻そう”——11月、衆望を担って公明党が結党。伸一は、党が権力の魔性に食い破られぬよう戒めつつ、結成大会に“民衆の幸福のため、世界の平和のため、勇敢に前進を”と祝電を送る。

12月、伸一は、太平洋戦争の悲惨な地上戦の舞台となった沖縄へ。この地から、平和の大波を起こさんとの誓いを込め、伸一は、師・戸田城聖の伝記小説『人間革命』の筆を起こす。

第10巻 (「言論城」「幸風」「新航路」「桂冠」の章)

【言論城】

「勝利の年」と銘打たれた1965(昭和40)年。

元日付から聖教新聞に山本伸一の小説『人間革命』の連載が開始。言論・出版活動に力が注がれるなか、会員の強い要望であった聖教新聞の日刊化への本格的な準備が進む。6月、伸一は聖教新聞社を訪れ、職員と懇談。“聖教を世界最強の言論城に”と激励。編集、印刷、広告、業務の各担当者の奮闘が結実、7月15日付から聖教新聞が日刊化される。

これと相前後して海外でも機関紙誌が発刊される。

【幸風】

8月、伸一はアメリカ・ロサンゼルスへ。出発直前に、ロスで人種差別への抗議から暴動が発生。危険が予想されたが、伸一は「今こそ、仏法という生命の平等の哲学を、アメリカの天地に」との強い決意で予定通り渡米。

ロス郊外での野外文化祭に出席し、全魂で同志を激励。さらに戸田会長が逝去の直前、夢に見たというメキシコへ。世界広布への新しき幸風を起こした平和旅となった。

帰国後、休む間もなく各地の記念撮影会へ。

【新航路】

1965(昭和40)年10月、本門の戒壇となる正本堂建立の供養の受け付けが開始される。

伸一は10月度本部幹部会を終え、ヨーロッパへ。パリでは、ヨーロッパ本部を2本部に分轄し、ヨーロッパ総合本部の設置を発表。アフリカの友への激励も。

西ドイツでは、日本から世界広布への決意に燃えて移住した青年たちの活躍をたたえ、最大の励ましを送った。

イタリア訪問では、民音の招へいによるミラノ・スカラ座の日本公演実現への努力がつづられる。

【桂冠】

伸一はヨーロッパ訪問から帰ると直ちに創価大学の設立審議会を発足。
さらに記念撮影会を中心に伸一は、各地のメンバーの激励に全力を注ぐ。病に悩む友や、母を亡くし、父が未入会の姉妹への指導など、無名の庶民一人ひとりに、勇気の炎をともしていった。

そうしたなか、伸一は組織の中核を担う本部職員に、いかに学会精神を伝え、人材に育て上げるかに心を砕く。

1966(昭和41)年「黎明の年」の1月、伸一はハワイへ。ハワイ会館の開館式に出席。求道に燃えるメンバーを激励し、ハワイ広布の発展へ獅子奮迅の戦いを進めた。

帰国後、2月の本部幹部会で壮年部の新設を発表。3月5日には壮年部結成式。伸一の会長就任以来、6年。新しい時代への本格的な布陣が整った。

小説『新・人間革命』
『人間革命』要旨