活動別

目的別

『新・人間革命』要旨26巻~30巻(上・下)

第26巻 (「厚田」「法旗」「勇将」「奮迅」の章)

【厚田】

「広布旅 師弟不二なり 三世まで」——1977(昭和52)年9月30日、山本伸一は、恩師・戸田城聖の故郷である北海道・厚田村に完成した戸田記念墓地公園を訪問。

恩師を永遠に顕彰し、その精神をとどめる「記念の城」を、この地に築こうとの思いが、遂に結実したのである。創価学会初のこの墓園は、「恒久性」「平等性」「明るさ」を基本理念に、日蓮仏法の生命観が表現されていた。

その夜、伸一は、妻の峯子、子息の正弘と共に恩師ゆかりの戸田旅館を訪れ、さらに、戸田から世界広宣流布を託された思い出の浜辺に立つ。10月2日の開園式では厚田を〝生死不二の永遠の都〟に、墓地公園を〝人間蘇生の憩いの広場〟にと呼び掛ける。その後も、記念勤行会等に連日出席し、「人間革命」「地域友好」「信心継承」の広宣流布総仕上げの3指針を示すなど、9日に東京へ出発する5分前まで指導を続けた。

【法旗】

「教学の年」第2年となる1978(昭和53)年の1月6日、新春本部幹部会で、広布第2章の「支部制」の実施が発表される。それまでの総ブロックを支部とし、草創期の支部のように清新な息吹で、仏法対話の輪を広げ、学会伝統の信心錬磨の組織を築き上げていくことになった。

「支部制」による、新たな発展の原動力は婦人部であると考えていた伸一は、14日、第2東京本部の婦人部勤行会に出席する一方、教学部師範会議や教学部大会にも出席し、自ら教学運動の先頭に立っていった。

16日、彼は、愛媛県の松山へ。青年部幹部の家族や、会館管理者とその家族を励まし、功労者宅に足を運ぶなど、学会を陰で黙々と支える友に光を当てる。18日の松山支部結成18周年記念勤行会では、参加者を玄関前で出迎えもした。その夜、地元の婦人部幹部の要請を受け、急きょ、愛媛訪問最終日の19日に、勤行会の開催を決める。自らの昼食の時間を勤行会にあてたのである。それは、幹部は会員のためにあるとの精神を行動で示すものであった。

【勇将】

1月19日、香川県の四国研修道場を訪問した伸一は、広布第2章の「支部制」の新出発にあたり、「創価学会の発迹顕本」といえる戦いを開始しようと心に誓う。その夜、方面・県幹部との懇談会では、〝会合での指導と個人指導の比率は2対8を目標に〟等と指導する。

21日には、新支部体制発足後、初となる四国研修道場での本部幹部会に出席。伸一は、幹部の最も大事な信心の基本姿勢は、同志を大切にし、一人のために尽くし抜くことであると力説。翌22日は、皆が自由に参加することができる勤行指導会を開催し、集った同志に渾身の激励を重ねる。その後、視察に向かった高松講堂の建設予定地では、寒風のなかで待っていた人たちを抱きかかえるように励ます。

1月25日、奈良支部結成17周年記念幹部会が、完成したばかりの明日香文化会館で行われる。席上、花束を贈られた草創の奈良支部の初代支部長・婦人部長夫妻には、烈々たる確信で夫の病を克服し、無理解の罵倒にも屈せず、弘教に走り抜いてきた体験があった。伸一は、一切の学会活動は「折伏精神」を根本としていることを述べ、わが生命に「信心の王城」を築くことが、新会館に魂を打ち込むことになると訴える。

【奮迅】

東京に戻った伸一は、1月27日、全国で行われる支部結成大会の冒頭を飾る、東京・杉並区の方南支部結成大会に出席。「支部は地域における学会本部」と語り、地域を「幸せの花園に」と念願する。

2月18日、伸一は東京・立川文化会館で行われた本部幹部会へ。翌19日には、同会館に集った信越男子部の代表に、ホイットマンの詩の一節を引いて、今、立ち上がることの大切さを指導する。

「支部制」が軌道に乗り始めたことを確認した伸一は、次に、最前線組織であるブロックの強化に力を注ぐ重要性を痛感。首脳幹部との懇談で、若き日に通い続けた埼玉・川越地区での御書講義について述懐し、真剣勝負の行動の大切さを強調する。

伸一の奮闘によって、「支部制」に魂が打ち込まれ、組織の隅々まで、新生の息吹があふれていった。3月の半ば、彼は幹部に、油断を排し、「日々挑戦を」と訴える。
学会は、宗門の悪侶らの誹謗中傷という、猛り立つ波浪のなかを進んでいたのである。
大転回点が仏教の発祥であったことなどを訴える。

第27巻 (「若芽」「正義」「激闘」「求道」の章)

【若芽】

1978(昭和53)年4月9日、東京創価小学校が武蔵野の地に誕生し、第1回入学式が晴れやかに行われた。

小学校の開校によって、幼稚園から大学院までの創価一貫教育の城が完成する。創立者の山本伸一は、入学式前日に小学校を訪れ、校内を視察。翌日の入学式後にも児童たちと記念撮影、記念植樹をし、昼食を共にして祝福する。

伸一は、折あるごとに小学校を訪問し、母子家庭や経済的に大変な家庭の児童、障がいのある児童らと自ら会い、抱きかかえるように激励。運動会、児童祭にも出席する。

1982年(昭和57年)3月、第1回卒業式では、「『平和』の二字だけは生涯忘れてはならない」と語る。翌月、大阪府枚方市に関西創価小学校が開校。伸一との黄金の思い出を刻みながら、創小生の若芽は、大きく成長し、社会へと巣立っていく。

【正義】

学会は、本格的な世界広宣流布の時を迎え、日蓮仏法の本義に立ち返った教学の深化を図り、万人の平等を説く仏法の法理を、広く社会に展開してきた。しかし、宗門の若手僧らは、それを謗法だと言って非難。伸一は、仏子である会員を守ろうと、宗門と対話を重ねる。

1978(昭和53)年、春から、学会は全国各地で〝合唱祭〟を開催する。4月15日、埼玉文化合唱祭に出席した伸一は、信仰によって躍動した生命で奏でる合唱の歌声は、万人の心を結ぶ〝文化の懸け橋〟となり、仏法を社会に開く推進力となると訴える。

23日、三重研修道場での三重文化合唱祭に出席。24日には、地元の婦人部本部長宅を訪れ、草創の功労者を励ます。その後も支部婦人部長宅を訪問。寸暇を惜しんで個人指導を重ね、リーダーの在り方の範を示す。

【激闘】

5月3日、会長就任18周年を祝賀する記念勤行会が全国各地で開催された。伸一は、メーン行事となる創価大学での表彰式典で、「生涯、信行学の実践を」と力説する。

9日には、東京・練馬文化会館の開館記念勤行会へ。信心は晩年の総仕上げの時が大事であり、最後まで堂々と学会を支えていくなかに、真実の黄金の人生があると語る。

14日から、鹿児島県の九州研修道場で開催された春季研修会に臨む。鹿児島会館や会員宅も訪問し、創価大学出身の青年部員らとも懇談のひと時をもつ。

17日には福岡へ飛び、九州最高会議で個人指導の基本姿勢を確認。続いて福岡圏・別府支部の体験談大会であいさつ。

18日、山口市内の支部座談会に出席。座談会の在り方について、功徳の体験を語り、信心の確信に満ちた集いにと望む。

20日には平和原点の地・広島で初の開催となった本部幹部会に。21日には岡山県女子部の合唱祭で励ましと指導を重ねる。

【求道】

伸一は、5月27日、東北平和会館で東北婦人部長・書記長らを激励。翌日、伊達政宗の騎馬像が立つ、夜の青葉城址を散策。24年前、戸田城聖と共に訪れた折、師が語った「学会は、人材をもって城となす」との言葉が耳朶に響く。

29日、福島文化会館での代表幹部との懇親会に。翌30日、郡山会館を訪れ、前年に亡くなった会館管理者の追善法要を行い、夫人を励ます。

6月8日には北海道へ。厚田では、北海道青年部の第6回総会で指導。

13日には釧路へ。別海の北海道研修道場を初訪問する。滞在中、役員の青年への激励をはじめ、標津町へも足を運び、個人指導に力を注ぐ。16日、上春別で雑貨店とドライブインを営む壮年と、77歳の求道心旺盛な母親を讃え、句を贈る。

伸一の北海道での激励行は16日間にわたった。この間、共に記念撮影した人の数は約5千人。延べ2万人を超える会員と会い、励まし続けた。

第28巻 (「広宣譜」「大道」「革心」「勝利島」の章)

【広宣譜】

1978年(昭和53年)6月28日、山本伸一は、学会本部で新学生部歌の作詞を開始。

一節一節の意義を学生部の代表に語りながら、〝全員が人材、全員が使命の学徒、学生部の活動は世紀の指導者に育つための修行〟との指針を示す。新学生部歌「広布に走れ」は、30日の学生部結成記念幹部会で発表され、瞬く間に日本中の友に愛唱されていった。

この頃、伸一は宗門による理不尽な学会攻撃に苦しめられている学会員を励まし、皆の勇気を奮い起こすために、各部や全国の方面や県などに、〝希望の歌〟を贈りたいと考えていた。7月に入ると、新男子部歌「友よ起て」や白蓮グループの「星は光りて」、新壮年部歌「人生の旅」、練馬区・北町地域の支部歌「北町広布」、千葉の歌「旭日遙かに」と、次々に歌を作っていった。また、7・17「大阪の日」を迎えるにあたって、苦楽を共にしてきた関西の友に「常勝の空」を贈り、今再びの出発を切る。

引き続き、中国方面の指導へ。移動の車中や懇談の合間も作詞や推敲に取り組み、岡山では九州の歌「火の国の歌」を、さらに鳥取県米子では中国の「地涌の讃歌」を発表。再び岡山に戻った彼は、四国の「我等の天地」、新高等部歌「正義の走者」(後の未来部歌)を完成させていく。

【大道】

7月24日、香川県の四国研修道場の野外研修で「我等の天地」を発表。翌日の記念幹部会で伸一は、〝凡夫こそ仏〟という創価の人間主義の根幹を語り、〝人材の四国に〟と期待した。26日には、2度目の小豆島訪問へ。豪雨災害を乗り越えた友を励まし、のちに「小豆島の歌」を贈る。

27日、名古屋での「中部の日」記念幹部会では、中部に贈った「この道の歌」を熱唱。広布誓願の〝この道〟を進むなかに、信心の醍醐味と真の喜楽があることを語った。翌日、岐阜・東濃地域へ。5回におよぶ記念勤行会を行い、渾身の指導と激励を重ねる。

8月2日、伸一は、荒川文化会館で行われた東京支部長会で東京の歌「ああ感激の同志あり」を発表。信心根本に「感激」をもって生きる学会員の一日を表現した歌詞を解説するとともに、学会活動に取り組む支部長・婦人部長の姿勢を語る。終了後、代表幹部と懇談し、〝東京は一つ!〟との自覚を促す。

さらに、東北の「青葉の誓い」、北陸の「ああ誓願の歌」、神奈川の「ああ陽は昇る」を作り上げ、9日からの九州指導の激闘のなか、北海道の「ああ共戦の歌」(後の「三代城の歌」)を、22日からの長野指導では「信濃の歌」を発表するなど、錬磨の月・8月も、希望の歌、勇気の歌を作り続け、全国に広布に生き抜く共鳴音を広げた。

【革心】

8月12日、日本と中国の間で「日中平和友好条約」が調印された。伸一の日中国交正常化提言から満10年。彼は、この条約を内実のともなう永遠のものにするとの誓いを胸に、9月11日、3年5カ月ぶりの第4次訪中へ。〝日中新時代〟の流れを広げ、万代の平和の礎を築こうと、文化・教育の交流に力を注ぐ。文化大革命が終わり、「四つの現代化」へ新出発した中国各地には、喜々とした若者の姿や明るい表情の女性があふれていた。

17日、人民大会堂で歓迎宴が行われた。伸一は、日中の平和友好条約に盛られた、平和を守る精神をどのように構築していくか——その根本は「信義」であると訴える。この時、初めて会った周恩来総理夫人・鄧穎超は、語らいのなかで訪日の意向を発表する。

19日、李先念党副主席は、伸一との会見で日本に1万人の留学生派遣や中米国交正常化のための条約を結ぶ用意があることなどを述べ、友好交流の展望が開かれる。その夜、伸一主催の答礼宴にも、鄧穎超が出席。周総理も、鄧穎超も、共に生涯、心の改革を忘れず、革命精神を貫く、〝革心の人〟であった。伸一は、鄧穎超と日本での再会を約すとともに、日中友好の永遠なる金の橋を築き、周総理との信義に生き抜くことを強く心に誓うのであった。

【勝利島】

10月7日、学会本部に全国約120の島から同志が集い、第1回離島本部総会が行われる。伸一は、開会直前まで、沖縄支部長会の参加者や離島の代表などを、全力で励ます。

1960年代、北海道・天売島や愛媛県・嘉島、鹿児島県の吐噶喇列島・奄美群島、伊豆大島など、各島々の同志は、決然と広布の戦いを起こしていった。多くの島で、無認識から非難中傷の嵐が吹き荒れ、村八分など人権さえも侵害されるなかで、〝わが地域の広布は、わが手で!〟と自らを鼓舞し、弘教を推進。地域に信頼を広げ、広布の道を切り開いてきた。74年(昭和49年)1月14日、離島本部の結成が発表されると、伸一は、石垣島や宮古島など、率先して島々を駆け巡ってきた。島へ激励に足を運ぶ離島本部の幹部にも、激励の伝言を託すなど心を砕いた。

そして、「広布第二章」の支部制がスタートした78年(同53年)、遂に第1回離島本部総会が開催されたのである。

伸一は、各島で孤軍奮闘する、遠来の友を心からねぎらう。そして、一人一人が、この島を支える柱となるのだとの決意に立ち、島の繁栄を願い、島民のために活躍する。島全体を希望に包み、歓喜に満たす太陽のような存在になってほしい。また、誰人に対しても仲良く、協調し、人間性豊かな日常の振る舞いで信頼を勝ち得ていってほしい——など、島の広布推進の要諦を語る。

この総会をもって離島の同志は歓喜の出発を遂げる。広布誓願の決意を固めた同志にとって、各島々は、離れ島などではなく、久遠の使命を果たす天地であり、幸福島であり、勝利島となった。離島の新章節が幕を開いたのだ。

第29巻 (「常楽」「力走」「清新」「源流」の章)

【常楽】

1978年(昭和53年)10月10日、山本伸一は、ハーバード大学名誉教授のジョン・K・ガルブレイス博士と会談。

読書論や指導者論、また、互いのモットーなどについて、心通う率直な語らいのなかで、友情の絆が結ばれていく。対談を終えた伸一は大阪へ。翌11日、城東区の総会に出席し、熱原法難700年の意義をとどめ、現代における殉教の精神について指導する。

同月21日、東京・板橋文化会館で行われた本部幹部会で彼は、学会歌の制作に込めた同志への真情を語ったあと、自ら作詞した新婦人部歌「母の曲」、茨城の歌「凱歌の人生」を発表する。その後も、埼玉には「広布の旗」、世田谷には「地涌の旗」、新潟には「雪山の道」、栃木には「誓いの友」と、次々に県・区歌を作詞して贈る。

一方、宗門では、学会批判を慎むようにとの宗務院の通達は守られず、学会への中傷が続いていた。その背景には、宗門を利用し学会を操ろうとの野心に狂った弁護士・山脇友政の暗躍があった。横暴な宗門僧の言動に苦しめられる同志に、伸一は、間断のない励ましを続けながら、指導部には、生涯、広宣流布への闘魂を燃やし続け、常楽我浄の大勝利の人生を飾ってほしいとの思いを託し、「永遠の青春」を作詞。さらに、山梨には「文化と薫れ」を、大阪・泉州文化会館を初訪問した折には、車中で「泉州の歌」を完成させ、贈った。

【力走】

11月18日、創価学会創立48周年を記念する本部幹部会が、東京・荒川文化会館で開催された。

席上、伸一は、「七つの鐘」が翌1979年に鳴り終わることを述べ、80年から2000年までは5年単位で、前進の節を刻んでいく未来展望を語る。

「11・18」を記念して発表した提言では、環境問題や「地方の時代と創価学会の役割」にも言及。「最も光の当たらない人びとのなかに、率先して入り、対話していくことが、私ども幹部に課せられた、当面、最大の課題」と記し、自らその範を示すかのように、これまで、あまり訪問できなかった地域へ行き、同志と会おうと行動を開始する。

21、22日は神奈川の戸塚文化会館へ。30日には、大阪・交野の創価女子学園で、松下幸之助と4時間近く会談したあと、三重に向かう。翌12月1日、名張市を初訪問し、失明の危機を乗り越えた壮年本部長やその家族、地元の同志を激励。三重での諸行事を終えるや、大阪に戻り、さらに6年半ぶりの高知指導へ。四国の西部南端に位置する土佐清水市の高知研修道場も初訪問し、高知の全同志を激励したいと、力走を続ける。

年の瀬も押し詰まった12月26日から28日も、栃木・群馬へ。〝今、戦わずして、いつ戦うのだ! 時は今だ! この一瞬こそが、黄金の時だ〟——伸一は、自身に言い聞かせるのであった。

【清新】

1979年(昭和54年)、「人材育成の年」が明けた。「七つの鐘」の総仕上げとなる年の清新の出発にあたり、伸一は、1月9日には宮城県仙台市の東北平和会館で同志を激励。最も寒い季節に行かなければ、寒冷の地で暮らす人々の苦労も気持ちもわからないと、東北指導に赴いたのである。

11日には、岩手県の水沢へ。翌日には、水沢文化会館の開館を記念する自由勤行会を開催し、「皆が〝地域の柱〟に!」と訴える。

東日本大震災(2011年3月11日)で、地域の人々のために勇んで献身する学会員のなかには、この水沢文化会館での自由勤行会で伸一との出会いを結んだ人たちが少なくなかった。

1月13日には、青森へ。青森文化会館では、10年前の約束を忘れず訪ねてきた、下北のかつての中等部員たちを歓迎。〝自分の立てた誓いを果たす。そこに人生の勝利を決する道がある〟と励ます。幹部会や懇談会の合間には、成人式を迎えたメンバーや役員の青年らと記念撮影。さらに小雪の舞うなか、会館周辺をまわり、路上で何人もの学会員を励ます。

東京に戻った彼は、オックスフォード大学のウィルソン教授(宗教社会学者)と、宗教が担うべき使命などについて語り合う。

伸一は、戸田城聖が東洋広布を託した九州からインドに出発しようと、九州研修道場を訪問。2月1日に行われた九州記念幹部会では、インド訪問団の壮途を祝して、タゴールが作詞・作曲したインド国歌「ジャナ・ガナ・マナ」(インドの朝)が合唱団によって披露される。

【源流】

2月3日、鹿児島空港を発った伸一は、5年ぶりに香港を訪問。九竜会館を初訪問し、香港広布18周年を祝う記念勤行会に出席するなど、短い滞在時間を惜しむように、励ましに徹した。

一行は、6日午前0時過ぎ、インド・デリーの空港に到着。深夜にもかかわらず招聘元のインド文化関係評議会(ICCR)の事務局次長やデリー市の市長ら多数が出迎えてくれた。その日の午後には、デリー大学で行われた図書贈呈式に出席。翌7日以降、デサイ首相やバジパイ外相等、要人との会見が続く。過密なスケジュールの合間を縫ってインドの同志との懇談会が行われた。全インドから集った約40人のメンバーに、伸一は、「ガンジス川の流れも、一滴の水から始まる。同じように皆さんは、インド広布の大河をつくる、源流の一滴、一滴となる方々です」と指導。〝ガンジスの一滴に〟——それは、インドの同志の合言葉となった。

9日に図書贈呈式を行ったジャワハルラル・ネルー大学では、後にインド大統領となるナラヤナン副総長と友誼を結ぶ。2月11日、恩師・戸田先生の生誕の日にニューデリーからパトナに移動した伸一は、夕刻、ガンジス川のほとりに立ち、東洋広布を念願した恩師を偲ぶ。カルカッタ(後のコルカタ)では、タゴールの精神を継承するラビンドラ・バラティ大学に図書を贈呈し、創価大学との交流の道を開く。帰国後も伸一は、インド広布の悠久なる大河の流れを開こうと祈り、励ましを重ねていく。

21世紀に入ると、仏教発祥の国に躍動する地涌の菩薩は15万人を超える。その世界広布新時代の〝源流〟が、躍動のしぶきをあげて走り始めたのである。

第30巻(上)(「大山」「雌伏」「雄飛」「暁鐘(前半)」の章)

【大山】

山本伸一は、1979年(昭和54年)2月16日、インドをたち、香港に到着。

滞在中、香港中文大学の馬臨副総長との語らい、東南アジア代表者懇談会、香港総督の表敬訪問、そして、「’79香港文化祭」に臨んだ。61年(同36年)の地区結成から18年、盛大な文化祭が開催されるまでに発展した姿に、彼は〝香港に21世紀を照らし出す平和の灯台が築かれた〟と実感し、20日に帰国する。

日本では、若手僧らによる学会への非難中傷が続くなか、3月上旬、一副会長の宗門に対する軽率な発言が格好の攻撃材料となり、責任追及の矛先が会長の伸一に向けられる。

宗門からは、伸一の法華講総講頭の辞任の声が上がり、檀徒となった脱会者らは会長を辞任せよと騒ぎたてた。会長の交代は、後継の流れをつくり、世界の指導者との対話や、文化・教育の推進に力を注ぐために、伸一が以前から考えてきたことでもあった。

彼は学会首脳との会議で、宗門僧の理不尽な攻撃にピリオドを打ち、学会員を守るために、一切の責任を負って総講頭を辞任し、さらに、世界広布の新しい流れを開くために会長の辞任を決断する。

4月24日、県長会で会長辞任が発表され、引き続き行われた総務会で、伸一が名誉会長となり、十条潔が第4代会長に就任することが決まった。そのニュースが流れると、学会員の驚きは大きかった。伸一は、この夜の記者会見に臨み、翌日は本部幹部会に出席して皆を励ます。

しかし、今後、彼が自由に会合に出席し、指導することはできない状況がつくられていた。学会支配を企む弁護士と宗門僧の陰謀であった。

5月3日、「七つの鐘」総仕上げ記念となる本部総会が、多数の宗門僧が出席し、重苦しい雰囲気のなかで行われた。

終了後、伸一は、わが誓いと弟子たちへの思いを、「大山」「大桜」と揮毫し、5月5日にも、神奈川文化会館で、「正義」——その右下に「われ一人正義の旗持つ也」と認め、広宣の大道を進み抜くことを誓う。

【雌伏】

第3代会長を辞任した伸一は、同志との励ましの対話に徹し、さらに、世界平和への流れを開くために、各国の大使や識者らとの語らいに努めた。

この年の夏、世界41カ国・3地域からSGIメンバー1300人が来日。神奈川文化会館での国際親善友好の集いや、東京戸田記念講堂での世界平和祈願勤行会にSGI会長として出席し、メンバーを激励。また、長野県・軽井沢町の長野研修道場を初訪問する。

宗門の圧力がかかるなか、広布の戦いをやめるわけにはいかないと、恩師・戸田城聖と最後の夏を過ごした縁深き地から行動を開始する。家庭訪問、個人指導の流れを起こし、佐久や小諸まで足を延ばした。また、記念撮影を行うなど、知恵を絞り、全精魂を注いで仏子たる同志への激励を重ねる。

80年(同55年)1月、四国の同志約800人が、大型客船「さんふらわあ7」号を貸し切り、伸一が待つ神奈川文化会館にやって来る。師匠の行動が制約されているなら、弟子がはせ参じようと、求道の炎を燃やして集ったのである。

2月には、鹿児島県の奄美大島地域本部の女子部員86人が、東京・立川文化会館にいた伸一のもとへ。宗門僧らは、広宣流布に生きる創価の師弟を離間しようと画策してきたが、師弟の魂の絆は、いかなる試練の烈風にも、決して断たれることはなかった。伸一は、魔の暗雲を突き破り、再び学会が、広布の師弟の道を驀進するために、1年にわたる雌伏の時を経て、遂に反転攻勢への決意を固めたのである。

【雄飛】

4月21日午後、山本伸一は、創価学会第5次訪中団として北京に到着。この訪中で、故・周恩来総理夫人の鄧穎超が住む「西花庁」の訪問、北京大学での講演、華国鋒主席(国務院総理)との会見、桂林を経て上海では作家の巴金と2度目の会談を行った。

29日、帰国の途に就いた伸一は、そのまま九州の長崎に向かい、ここから反転攻勢の大空へと雄飛していく。長崎、福岡と諸会合に出席し、同志の輪の中に飛び込み、5月3日を関西で迎えた。何度となく勤行会を行い、中部でも奮闘を続けて、計15万人を超える同志を激励する。

そして7月には「忘れ得ぬ同志」の連載を始め、8月には休載していた小説『人間革命』の連載を「聖教新聞」紙上で再開。命を削る思いで仕上げた原稿は、全同志の心に蘇生の光を注いでいく。

9月末、伸一は、北米指導に出発し、ハワイ、サンフランシスコ、ワシントンDC、シカゴと、激励に奔走。ロサンゼルスでは、「第1回SGI総会」に出席した。

翌81年(同56年)1月、伸一は、北・中米指導に赴く。

ところが、弁護士の山脇友政が学会への恐喝及び同未遂の容疑で逮捕されたことにともない、東京地検から事情聴取の要請があり、いったん帰国する。2月、再びアメリカに戻り、パナマ、メキシコと歴訪。彼の渾身の激励行によって、日本も、世界も、広布は上げ潮に転じ始める。

5月には、ソ連、欧州、北米訪問の旅へ出発。ソ連は、アフガニスタン侵攻以後、国際的に厳しい状況に追い込まれていた。しかし、そんな時だからこそ、文化・教育を全面的に掲げ、民衆の相互理解を促進する民間交流に最大の力を注ぐべきだというのが、伸一の信念であった。

チーホノフ首相との会見をはじめ、ソ連の要人、文化人と語らいを重ねた彼は、8日間にわたるソ連訪問を終え、大勢の同志が待つ、欧州に向かう。

【暁鐘】(前半)

5月16日、伸一は、ソ連から西ドイツに到着する。ここでは、ドイツ広布20周年を記念する交歓会に出席し、オランダ、デンマーク、スウェーデン、ノルウェーなど8カ国から集った800人の同志を励ます。

さらに、ブルガリアを初訪問し、同国最古の国立大学・ソフィア大学で、名誉教育学・社会学博士の学術称号を授与され、講演を行う。また、文化委員会のジフコワ議長、国家元首のジフコフ国家評議会議長らと会見し、子どもたちの「平和の旗」の集いにも出席する。

引き続きオーストリアを訪問。20年前には、メンバーは誰もいなかったが、支部が誕生しており、信心懇談会が開かれる。その席でオーストリア本部を結成。翌日には、本部長のアパートを訪ね、一家を激励する。

次のイタリアでは、大勢の青年たちの出迎えを受けた。フィレンツェで伸一は、イタリアの創価学会の目覚ましい発展を祝福しながら、その担い手である青年たちと懇談を重ねる。さらに列車でミラノに移動し、翌日、スカラ座のカルロ・バディーニ総裁を訪ねる。

この年の秋、民音などの招へいで行われることになったスカラ座の日本公演について、総裁は「山本先生の力がなければ、実現しなかったでしょう」と語る。そして、フランスのマルセイユへ。トレッツの欧州研修道場では、18カ国から500人のメンバーが集い、ヨーロッパ広布20周年を記念する夏季研修会などが行われた。

励ましの舞台は、花の都パリヘ。伸一は、21世紀への大飛躍のために、信心の基本や創価の精神を伝えようと、折々に語らいの場を設ける。また、青年たちの新しい出発を祝し、地下鉄のホームや車中で口述を重ね、詩を作り、贈った。

間断のない闘争は続き、6月16日午後、伸一は、アメリカ・ニューヨークへ飛び立つ。

第30巻(下) (「暁鐘(後半)」「勝ち鬨」「誓願」の章)

【暁鐘】(後半)

1981年(昭和56年)6月16日、山本伸一の平和旅は、フランスからアメリカへ。

ニューヨークでは、メンバーと徹底して会い、地涌の使命に生きる創価学会の確信と誇りを語る。20日、青春時代からの座右の書『草の葉』の著者ホイットマンの生家を訪ね、生涯、人々に励ましと希望と勇気を送る詩を書き続けようと決意する。この日、ニューヨーク市内での日米親善交歓会の席上、伸一がアメリカに到着後、寸暇を惜しんで作った詩「我が愛するアメリカの地涌の若人に贈る」が発表される。詩には、妙法を護持したアメリカの青年たちの使命が示されていた。

続いてカナダのトロントへ。21年前、伸一たち一行を迎えた未入会の婦人テルコ・イズミヤは、同国の議長となり、カナダ広布20周年記念総会には約1000人の同志が参加。伸一は、一人立つことの大切さを訴える。

米・シカゴでは、世界広布新章節の開幕を告げる第1回世界平和文化祭が開催される。ロサンゼルスに到着した7月1日、世界芸術文化アカデミーは、伸一に「桂冠詩人」の称号授与を決定する。ソ連、欧州、北米8カ国を歴訪した彼は、8日に帰国。間断なき激闘によって、世界広布の朝を開く新章節の旭日が昇り始め、“凱歌の時代”の暁鐘は、高らかに鳴り渡った。

【勝ち鬨】

7月、伸一は結成30周年記念の青年部総会や南米男子部総会に激励の言葉を贈る。18日、会長の十条潔が急逝し、第5代会長に秋月英介が就任。伸一は、これまでにも増して力の限り応援していこうと、強く心に誓う。

宗門事件で苦しめられてきた地域を回り、同志の奮闘をたたえようと、11月9日、徳島講堂落成記念勤行会へ。四国研修道場での「香川の日」記念幹部会では「もう一度、指揮を執らせていただきます!」と宣言。四国男子部の要請を受け、新愛唱歌に筆を入れる。推敲は二十数回にも及び、完成した「紅の歌」は、青年の魂の歌として全国で歌われていくことになる。

12月8日、13年半ぶりに大分を訪問。正信会を名乗る“邪信”の若手僧らによって、非道な仕打ちを受けてきた大分の同志を励ます。10日夜、県青年部幹部会の席上、「青年よ 21世紀の広布の山を登れ」が発表される。伸一が口述し、直前まで推敲を重ねた21世紀への新たな指針が、大分の地から全国に発信される。

彼は、熊本に移動する際には、岡城址で、悪僧の仕打ちと戦ってきた竹田の同志を激励。皆とカメラに納まり、「荒城の月」を大合唱する。熊本では、阿蘇の白菊講堂を初訪問し、熊本文化会館での県幹部会などに出席。15日には、自由勤行会に参加した友と、会館近くの公園で記念撮影し、「田原坂」を高らかに合唱。歓喜の万歳が広がる。

翌82年(同57年)1月10日、雪の秋田へ。秋田の同志も僧たちから激しい迫害を受けてきた。伸一は、秋田文化会館に向かう道路脇に立つ同志の姿を見るたび、車を降りて足を運び、声を掛けた。秋田でも、自由勤行会を開催。雪の降りしきる中、会館前の公園に記念撮影のために集った同志は、伸一と共に、「人間革命の歌」を熱唱し、民衆勝利の宣言ともいうべき勝ち鬨を上げる。

2月には、学会攻撃の烈風が吹き荒れた茨城を訪問。茨城文化会館落成記念の幹部会等に出席したほか、日立、鹿島、鉾田、土浦を訪れ、同志への激励を重ねる。

【誓願】

3月22日、第1回関西青年平和文化祭が開催され、青年たちは、困難に挑み戦う学会精神を学び、不撓不屈の“関西魂”を継承していった。平和文化祭は、中部、さらには全国各地で行われていくことになる。

6月には、国連本部で「現代世界の核の脅威」展を開催するなど、本格的な平和運動が展開されていく。83年(同58年)8月、国連は、伸一の平和への貢献をたたえ、「国連平和賞」を贈る。彼は仏法の平和思想、人間主義の思想で世界を結び、平和への流れを開こうと、ソ連のゴルバチョフ大統領やアフリカ民族会議のマンデラ副議長をはじめ、世界の指導者らと対話を進める。

学会は一貫して宗門の外護に努めてきたが、日顕ら宗門は伸一と会員を離間し、学会を破壊しようとする陰謀を実行に移す。彼らは、伸一がベートーベンの「第九」をドイツ語でも歌おうと提案したこと等を、外道礼讃、謗法と言いだした。そして90年(平成2年)12月末、宗規改正を理由に、伸一や学会首脳幹部らの法華講総講頭・大講頭の資格を剥奪する。さらに、学会の組織を切り崩そうと、「檀徒づくり」を公式方針として打ち出し、「破和合僧」の大重罪を犯す。また、信徒を蔑視して僧俗の平等を否定。教条主義、権威主義を露骨にし、日蓮大聖人の仏法の教義と精神から大きく逸脱していった。

学会は大聖人の精神を復興させ、人間のための宗教改革を断行。宗門は91年(同3年)11月28日付で、学会本部に「創価学会破門通告書」を送った。その日は、広宣流布の前進を妨げ、“日顕宗”と化した宗門からの“魂の独立記念日”となった。

“破門通告書”が学会本部に届いた29日、東京に大使館を置くアフリカ外交団26カ国の総意として、SGI会長の伸一に「教育・文化・人道貢献賞」が贈られた。それは、「魂の独立」を果たした創価の未来に寄せる喝采と期待でもあった。翌30日、「創価ルネサンス大勝利記念幹部会」が各地で行われ、伸一と共に、創価の新しき前進が始まった。

時代は東西冷戦の終結へと向かい、12月、東側陣営を率いてきたソ連が崩壊。伸一は、92年(同4年)、冷戦終結後の新たな平和構築を展望し、アジア、欧州等を訪問。翌93年(同5年)、北・南米を回り、アメリカでは“人権の母”ローザ・パークスと会見し、ブラジルでは、ブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁らと対談する。また、アルゼンチン、パラグアイを初めて訪れ、チリで世界50カ国・地域目の訪問となった。95年(同7年)にはネパール、96年(同8年)にはキューバを訪問し、フィデル・カストロ国家評議会議長と会談する。伸一は、恒久平和と人類の幸福を目指し、“分断”を“結合”に変えるために、2000年(同12年)12月まで世界への平和旅を続けた。

晴れやかに開幕した21世紀。01年(同13年)5月3日、待望のアメリカ創価大学が開学。一方、9月にアメリカ同時多発テロ事件が起こる。伸一は、今こそ平和と対話への大世論を起こすべきと主張。

11月、創立記念日を祝賀し、青年部結成50周年記念の意義を込めた本部幹部会で、青年たちに後継のバトンを託す思いで、「創価三代の師弟の魂」を受け継いでもらいたいと訴える。学会は新世紀の「第2の七つの鐘」へ、地涌の大前進を開始していく。

小説『新・人間革命』
『人間革命』要旨