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『新・人間革命』要旨16巻~20巻

第16巻 (「入魂」「対話」「羽ばたき」の章)

【入魂】

この1年は広宣流布の未来にとって、極めて重要な節目となる年であった。
いよいよ10月には、日蓮大聖人が後世の弟子に建立を託された「本門の戒壇」となる正本堂が落成し、世界広布が新展開を迎えるのだ。山本伸一は、その新しき建設のために、全同志の胸に、永遠に崩れぬ信心の柱を打ち立てねばならないと決めていた。

元日の新年勤行会、2日の大学会総会と、伸一の「入魂」の激励が開始された。「地域の年」と謳われたこの年、伸一は最前線組織のブロックを強化し、信心の歓喜をみなぎらせていこうと決意し、ブロック長、ブロック担当員(現在は白ゆり長)との記念撮影等に一段と力を注いだ。

東京・新宿区の記念撮影では、学会本部を擁する“本陣”の使命を語り、祖国復帰を5月に控えた沖縄の地では、わずか3泊4日の滞在で、ブロック長など第一線組織で活躍する主立ったメンバー全員を励ます決心で、友の中に飛び込んで行く。

その疾走は、伸一が初代総ブロック長を務めた葛飾や恩師との思い出深き千代田、さらに関東、関西などへと続いた。
会う人ごとに希望の光を! 訪れた地域ごとに誇りと力を!
——伸一の戦いに呼応し、弟子たちは雄々しく立ち上がっていったのである。

【対話】

4月、伸一はフランス、イギリス、アメリカ歴訪へ旅立った。

今回の最大の目的は、20世紀を代表する英国の歴史学者トインビー博士との対談である。交流の発端は、1969年(昭和44年)秋、博士から伸一に対談を要請する手紙が届いたことだった。東西冷戦など、人類の抱える諸問題を解決する方途を求め、博士は学会に注目していたのだ。

その手紙で希望されていた「麗らかな春」——5月5日に、伸一はロンドンのトインビー博士の自宅を訪ねた。
83歳の博士は、44歳の伸一に語った。「21世紀のために語り継ぎましょう! 私はベストを尽くします!」

世代も文化的な背景も異なるが、人間の根源を探り、人類の未来を憂える二人の心は共鳴した。博士の主張も、伸一の語る仏法の生命論と、深く響き合っていった。

博士は訴えた。人類が直面する脅威を克服するには、宗教の啓発による人間の「心の変革」が不可欠だと。まさに「人間革命」といってよい。

人生論、歴史論、政治論等々、談論は尽きず、博士の強い希望で、73年(同48年)5月、伸一は再びロンドンへ。2年越し40時間に及ぶ、不滅の対話となったのである。

対談の最後に、博士は伸一に、対話こそ人類を結ぶものであり、“ロシア人、米国人、中国人とも対話を、世界に対話の旋風を”と望んだ。
以来、伸一は、世界の知性や指導者をはじめ、「世界との対話」を広げていく。人類の心と心を結ぶために——。

【羽ばたき】

帰国した伸一に休息はなかった。
7月には東北へ。折からの豪雨で、訪問予定の秋田をはじめ、全国各地に大きな被害が出ていた。

宮城入りした伸一は、秋田での記念撮影会を中止し、迅速に被災地域への激励の手を打つ一方、山形を訪問。さらに秋田に入って、メンバーを励ます。
また伸一は、全国の被災地に救援態勢を整えるよう指示。各地に救援本部が置かれ、広島や島根をはじめ、救援隊の奮闘に、学会への感謝と信頼が広がっていった。

10月12日——着工から4年、世界中の同志が待ちに待った正本堂が遂に完成。羽ばたきゆく鶴の姿を思わせる大殿堂で、晴れやかに式典が挙行された。
「慶讃の辞」を読む伸一は、感慨無量だった。

正本堂は、日達法主によって実質的な「本門の戒壇」と位置づけられていた。だからこそ、同志は、正本堂建立の供養に勇んで参加した。
また正本堂は、権威で飾られた建築と異なり、民衆自身が人類の平和と繁栄を祈る、未聞の民衆立の大殿堂である。
さらに伸一の意向で、参詣者の安全と至便性を第一に考慮した、「人間主義の思想」に貫かれた画期的な宗教建築となったのである。

ところが、わずか26年後の1998年(平成10年)、67世の法主を名乗る日顕によって、正本堂は解体される。それは800万信徒の赤誠を踏みにじり、大聖人御遺命の「本門の戒壇」たるべき大殿堂を破壊する暴挙であった。

しかし、御遺命の戒壇となる正本堂を建立した功徳・福運は、誰人も消すことはできない。
学会は、宗門の暴虐の嵐を勝ち越え、人間主義の宗教として、21世紀の大空へ悠然と羽ばたく。

第17巻 (「本陣」「希望」「民衆城」「緑野」の章)

【本陣】

「広布第2章」に入って初めての新年である1973年(昭和48年)「教学の年」が明けた。

山本伸一は、「広布第2章」とは仏法を基調とした社会建設の時ととらえ、広宣流布の大闘争を決意する。この年は別名「青年の年」。伸一は、仏法の多角的な展開を担う、青年たちに強く訴えた。
——師弟の道を歩め。社会に開く“遠心力”が強くなるほど、仏法への“求心力”が必要であり、その中心こそ師弟不二の精神だ、と。

また、伸一が当面の大テーマとしていたのが、本陣・東京の再構築だった。1月に新宿、練馬の友を激励したあと、2月に入ると、まず中野へ。参加した中野の青年たちに、30年間、毎年集うとともに、メンバーで「中野兄弟会」を結成することを提案。

伸一の足跡は、2、3月にかけて、港、渋谷、世田谷、千代田、杉並、目黒、さらに多摩方面の第2東京本部へと及び、地域ごとの特色を大切にした激励を重ねる。ここに「東京革命」の烽火が燃え上がった。

日本の政治・経済の中心である首都・東京で、難攻不落の大城を構築し、世界の立正安国の基盤を築く戦いが、伸一の手で着々と進められていったのである。

【希望】

“教育はわが生涯をかけた事業”と、創価教育に全精魂を注ぐ伸一は、4月11日、大阪・交野市に誕生した創価女子中学・高校(当時)の入学式へ。

交野は、豊かな自然に恵まれ、古くは和歌等にもうたわれたロマンの天地である。伸一は自らこの場所を選び、1969年(昭和44年)に建設計画を発表して以来、最高の教育環境を整えるために、真剣に心を砕いてきた。
関西の学会員も、その伸一の心に応え、用地の草取りなど、喜び勇んで支援してくれた。

そして迎えた入学式。 全国から集まった生徒たちに向かって伸一は、「他人の不幸のうえに自分の幸福を築くことをしない」という信条を培うよう期待を寄せる。
式典終了後の語らいでは、帰りが遅くなる時は、家に電話を入れること、いつでも電話ができるように10円玉を持っておくことなど、具体的なアドバイスを行うのだった。

伸一の限りない期待を強く感じ取った生徒たちも、通学途中に行き交う人々へのあいさつの励行や、最寄りの駅に花瓶と花を贈るなど、学園のよき伝統をつくるために努力を重ねる。こうした行動に、学園生への地域の信頼と共感が広がっていった。

また、伸一は、多忙な行事を縫って学園を訪れ、生徒のなかに飛び込んでいった。
長男の正弘は、創価教育への父の志を受け継ぎ、創価女子学園の教員に。後に、伸一の二男、三男も創価教育に従事していった。

創価女子学園は82年(同57年)、男子生徒を受け入れ、新スタート。女子生徒たちが真剣に取り組んだ「よき伝統」は大きく開花し、日本を代表する人間教育の城となっていく。

【民衆城】

「広布第2章」の大空への飛翔は、全同志の“信心のエンジン”を全開にする以外にない。4月から5月にかけて、伸一は一瞬の機会も逃さず、同志のなかへ飛び込んでいく。

東京・荒川の同志と出会えば、瞬時に励ましの懇談会に。荒川は、57年(同32年)8月、伸一が夏季ブロック指導の最高責任者として、弘教の指揮をとった地であった。その前月、伸一は無実の罪により、大阪で不当逮捕された(大阪事件)。荒川の地は、学会と民衆を苦しめる権力の魔性への、反転攻勢の舞台となったのだ。

4月の本部幹部会では墨田へ。ここもまた、53年(同28年)、伸一が男子部の第1部隊長を務めた時、広布拡大に走り抜いた地だった。その激闘を振り返りながら、民衆勝利の方程式が、感動的に示されていく。

伸一の東京各区の激励は続く。渋谷の後、生まれ故郷の大田へ、文京支部長代理時代に縁の深かった豊島へと、休みなく走った。

5月8日からは欧州へ飛んだ。フランスでは、「第三文明絵画・華展」やパリ大学へ。さらに、「ヨーロッパ会議」を設立する。英国へ渡ると、前年に引き続きトインビー博士と対談。帰国の途次には、経由地のオランダでメンバーを激励。希望の民衆城を築く、伸一の奮闘は続いた。

【緑野】

伸一は、東京に続き、各方面・県の強化の第一歩として福井県へ。福井は空襲、地震、台風など幾度も大災害に見舞われた。その国土の宿命転換のために必要なのは、まず人々の“心の変革”であった。

県幹部総会に出席した伸一は、福井の伝統に新たな光をあてて郷土の誇りを掘り起こし、「福井のルネサンスを!」と力説。学会員こそ地域繁栄の主役との深い自覚を促していったのである。
また席上、伸一は、13年前、夜行列車に乗った伸一に会おうと、深夜に敦賀駅に来たが、対面できなかった同志に励ましの言葉を。終了後には、福井長を務める青年に、指導者の在り方を語る。

伸一の激闘は、妻・峯子が戦時中に疎開していた岐阜県にも。
県幹部会では、「一人立つ」と題した、青年部の創作劇が感動を呼ぶ。“命ある限り戦う”との叫びに、伸一は、これが学会精神だと伝言を。会合では、一人一人の社会での勝利の実証が学会の正義の証明になると訴えた。また岐阜本部では、聖教新聞の記者・通信員に激励を重ねる。

皆の胸中に使命の種子を、勇気の種子を植え続けることが、希望の緑野を広げると確信していた伸一は、群馬県へ。
群馬が“地方の時代”の先駆を切り、広布のモデル県になるよう期待を寄せ、地元の交響楽団で活躍する友を励ます。

さらに茨城に続いて、北海道を訪問。ここでは「広宣流布は北海道から」との指針を贈る。

第18巻 (「師子吼」「師恩」「前進」「飛躍」の章)

【師子吼】

1973年(昭和48年)7月、山本伸一は、映画「人間革命」の完成試写会に臨んだ。
原作は、恩師・戸田城聖の生涯をつづった伸一の小説『人間革命』である。映画化のきっかけは、原作に感動したプロデューサーの要請だった。その熱意に承諾した伸一も、撮影現場を訪れ、俳優やスタッフを励ますなど、誠心誠意、応援した。
当代一流の映画人が総力をあげた作品は、記録的な大ヒットとなったのである。

そのころ伸一は聖教新聞社を足繁く訪れていた。「言論・出版問題」以来、一部の記者の間に、安易に社会に迎合して、信心の世界を見下すような風潮が生じていたのだ。
その本質は「信心の確信」の喪失である。伸一は記者たちのなかに飛び込み、記事の書き方から生活態度までアドバイスしながら、“広布の使命に生き抜け!”“仏法の眼を磨け!”と、職員の根本精神を教えていく。

さらに通信員大会では、5項目の聖教新聞の基本理念を発表。
正義の“師子吼”を放つ言論城が、伸一の手づくりでそびえ立っていったのである。

【師恩】

鍛錬の夏季講習会。伸一は合計10万人に及んだ参加者を全力で激励。そのなかに5年前に結成した男子部の人材育成グループ「白糸会」もいた。青年たちは、伸一の渾身の励ましに応え、師恩を報じようと懸命に戦い、成長していく。

9月に北海道に飛んだ伸一は、厚田村(当時)の有志による「村民の集い」へ招かれた。村をあげての歓迎は、恩師の故郷を楽土にと願う、伸一と同志が地域に築いた信頼の結実であった。

帰京後も、埼玉や、「山陰郷土まつり」が行われる島根、さらに鳥取を訪問。病苦に打ち勝った友の体験をはじめ、行く先々に、伸一と師弟共戦の凱歌が響いていく。

11月、栃木を訪れた伸一は、県の総会に、小学校の恩師の檜山夫妻を招待する。幾十年が過ぎても、変わらず幼き日の恩師を讃える伸一。そこに、人間として師恩を報じ、どこまでも師弟の道を貫く信念が輝いていた。

【前進】

各方面・県・区など各地の組織を強くしてこそ、創価の民衆城を支える柱は盤石になる——全国への伸一の激励は続いた。

菊花香る晩秋の愛媛では、聖教新聞の購読推進に大奮闘した同志の心意気に、伸一は、「広布第2章」の前進の光を感じる。

香川、徳島に赴いた彼は、広布途上に早世した青年を偲び、求道心をたぎらせ続けた老婦人との劇的な出会いなどを刻みながら、学会員こそ郷土の繁栄を担う社会の宝であると訴えた。

当時、石油危機による物価高騰と不況が深刻化し、中小企業の多い地域で苦闘する同志も多かった。しかし、混迷の世相だからこそ、信心という原点をもった学会員が社会の希望となる。

師走にかけて、東京各区を回った伸一は、烈々と叫ぶ。「不況に負けるな! 今こそ信心で勝て!」
1973年(同48年)の掉尾を飾る本部総会が、初めて関西で開催された。明年の「社会の年」へ、同志は、人間主義の新時代を開くため、勇んで大前進を開始する。

【飛躍】

世界経済の激動で明けた74年(同49年)。「大悪は大善の来るべき瑞相」(御書1467ページ)と、学会は逆境を希望に転ずる確信で「社会の年」を出発した。

年頭から伸一が力を注いだのは、広宣流布の基盤である座談会の充実だった。
その成功のために彼は、中心者の一念の大切さ等を、折あるごとに訴える。

北九州での青年部総会、福岡・田川の友を激励した伸一は、1月下旬、鹿児島から香港へ飛ぶ。
10年ぶりの香港は、実に8000世帯に大発展。皆の功徳満開の姿が、伸一の最高の喜びであった。同志は、誤認識の批判をはね返し、社会に着実に信頼を広げてきた。

伸一は、香港市政局公立図書館、香港大学、香港中文大学を訪れ、文化・教育交流に新たな一歩を踏み出す。さらに「東南アジア仏教者文化会議」に出席。世界広布の大飛躍の時を、伸一は命を賭してつくり続けた。

第19巻 (「虹の舞」「凱歌」「陽光」「宝塔」の章)

【虹の舞】

1974年(昭和49年)2月、山本伸一は本土復帰後最初となった沖縄訪問で、初めて石垣島(八重山諸島)・宮古島を訪れる。

島の同志は伸一の来島を心待ちにし、地域広布に奮闘してきた。その友のため、伸一は両島で、記念撮影会や図書贈呈式、文化祭、さらに先祖代々の追善法要へと走り、自らも鉢巻き姿で友と一緒に踊るなど、渾身の激励を続けた。

那覇に戻ると、広布20周年記念の総会で、沖縄を真の理想郷にと訴え、県北部の名護にも足を運ぶ。この間、彼は、全国初の「高校会」を結成、高・中等部員に反戦出版を提案するなど、未来世代の育成に全力を注いだ。

戦争で苦しんだ沖縄こそ平和実現の使命がある——伸一は、心に美しい虹をいだいて前進するよう、沖縄の友を励ますのだった。

【凱歌】

3月、伸一はアメリカ・ブラジル・ペルー歴訪へ旅立った。

だが、ブラジルの入国ビザが下りず、渡伯を中止して中米パナマを初訪問する。ここにも多くのメンバーがいたのだ。政府高官や大学総長らとの語らいに続き、ラカス大統領を表敬。伸一にとって、国家元首との最初の会見となった。

続くペルーは8年ぶりの訪問。前回は警察等の厳しい目が学会に注がれていたが、今や同志は社会に信頼を広げ、状況は大きく変わっていた。伸一は、ペルー会館の開所式や、炎天下での記念撮影会に相次ぎ出席。メンバーの功労をたたえるとともに、全力で激励にあたった。

その彼に、首都リマ市は「特別名誉市民」称号を授与。文化祭にも市長ら多数の来賓が出席し、社会貢献の同志の凱歌が轟いた。

伸一は過労で体調を崩すが、病を押して南米最古のサンマルコス大学を訪問。教育の未来を語り合った総長と伸一は、深い友情を結んでいく。

【陽光】

ペルーを発った伸一は、メキシコ経由でアメリカへ戻った。

4月1日、彼はカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)を訪れ、「21世紀への提言」と題して記念講演を行う。仏法の生命観を通し、「21世紀を生命の世紀に」と訴えて大好評を博した。これは、伸一が海外の大学等で行った最初の講演となった。

海外初となる恩師の17回忌法要が終わると、舞台はサンディエゴ市へ。伸一への市や郡からの顕彰に続き、市中パレードや全米総会など盛大なコンベンション(大会)が行われ、友の歓喜が弾けた。

訪問中、伸一は自ら陽光となって、出会った人、陰の人を励まし続けた。帰国の途次には、病床から復帰した草創の友のために、予定を変更してハワイに立ち寄る。

【宝塔】

4月半ばに帰国した伸一は、長野や北陸など各地へ走った。

そのころ、青年部の反戦出版委員会のメンバーが、戦争体験の証言集の編集作業に没頭していた。これは、伸一が、恩師の「原水爆禁止宣言」の精神の継承を青年部に託したことに応え、取り組んできたものだった。

出版の先陣を切ったのは沖縄青年部であった。凄惨な体験ゆえに沈黙する人々にも、誠意を尽くして取材を重ねた。そしてこの年の6月、「戦争を知らない世代へ」の第1弾として、『打ち砕かれしうるま島』が発刊された。

続いて広島・長崎の青年部も、原爆の惨劇を世界に叫ぶ証言集を出版。やがて1985年(昭和60年)には、47都道府県を網羅した反戦出版全80巻が完結する。戦争の悲惨を伝え、平和と生命の尊厳を訴える出版は、各界に大きな共感を広げた。

1974(昭和49)年5月、伸一は視覚障がい者のグループ「自在会」の集いへ。幾多の労苦を越えてきた友を、全精魂を注いで激励。“皆が尊厳無比なる宝塔として自身を輝かせよ”と心から祈るのであった。

第20巻 (「友誼の道」「懸け橋」「信義の絆」の章)

【友誼の道】

1974年(昭和49年)5月30日、山本伸一は妻の峯子と共に、中華人民共和国を初訪問する。

香港から歩いて国境を渡って深センに入り、中国への第一歩を。
伸一は、中国に文化大革命の嵐が吹き荒れるなかで「日中国交正常化提言」(68年9月)を発表するなど、両国の関係改善に奮闘。72年9月には日中国交正常化が実現した。

中国側は、伸一の貢献を高く評価。各地で熱烈な歓迎を受ける。北京では中日友好協会や小・中学校、人民公社等を訪問。北京大学では5000冊の図書贈呈の目録を手渡す。この訪問が創価大学との交流の源流になる。

伸一が、最も心を痛めていたのは中ソ対立だった。中日友好協会の代表との座談会で懸命に平和を訴え、中国には侵略の意思がないことを確認。李先念副総理との会見でも、中国は強く平和を求めていることを確信する。

上海での答礼宴で、学生部長の田原と中国の青年が再会を喜び合う姿に、伸一は“日中提言”の時に思い描いた夢が実現しつつあることを感じる。往路と同様、歩いて香港側へ向かう伸一は深く心に誓う。“中ソの戦争は絶対に回避しなければならない。さあ、次はソ連だ!”

【懸け橋】

宗教否定の国へ、なぜ行くのか。「そこに、人間がいるからです」——伸一は中国に続いて、9月8日にソ連を初訪問。彼の胸には“対立する中ソの懸け橋となり、世界平和の幕を開かねば”との決意の炎が燃え盛っていた。

金秋のソ連の大地を踏んだ伸一は、モスクワ大学のホフロフ総長と懇談。同大学と創価大学との間に、教育・学術交流への具体的な計画が検討され、議定書の調印に至る。

また、民間外交機構である対文連のポポワ議長、高等中等専門教育省のエリューチン大臣、民族会議のルベン議長らとも対話を。文化省では民音、富士美術館との交流に合意。ソ連科学アカデミーと東洋哲学研究所との学術交流の道も開く。

レニングラードを訪問し、再びモスクワに戻った伸一は、ノーベル賞作家ショーロホフと会談。そして、訪ソ最後の日、クレムリンでコスイギン首相と会見した。

伸一は、中国の首脳が他国を攻めるつもりはないと語っていたことを伝え、率直に尋ねる。
「ソ連は中国を攻めますか」。首相は答える。「ソ連は中国を攻めないと、伝えてくださって結構です」
伸一の手で、中ソの対立の溝に一つの橋が架けられようとしていた。

首相と会見した後、一層の日ソ交流促進への意思を明らかにするため、一行と対文連とのコミュニケ(声明書)が発表される。

【信義の絆】

12月2日、伸一は北京大学の図書贈呈式に招かれ、再び中国を訪問。

中日友好協会の廖承志会長に、伸一は、コスイギン首相との会見内容を中国の首脳に伝えるよう託す。この訪問でも、北京大学での諸行事やトウ小平副総理との会談など、伸一の真心の人間外交が織り成されていく。

滞在最後の夜、答礼宴が終わりに近づいたころ、周総理からの会見の意向が伝えられる。療養中だった総理の病状を案じる伸一は丁重に辞退を。しかし、会見は総理の強い意志であることを知り、入院する305病院へ。会見の部屋には伸一と峯子だけが入った。

周総理は、伸一の中日友好への取り組みを高く評価し、中日平和友好条約の早期締結を切望。未来を託すかのような総理の言葉を、伸一は、遺言を聞く思いで心に刻む。

周総理と会見した1カ月後の翌75年新春、伸一はアメリカへ。
国連にワルトハイム事務総長を訪ねた。その際、青年部の悲願が込められた核廃絶への一千万署名簿を手渡す。

翌日、キッシンジャー国務長官と初の会談を行うため、ワシントンへ。伸一は中東和平への提言を英訳した書簡を手渡す。長官は書簡を熟読し、伸一の提言を大統領に伝えることを約束する。

会談後、伸一は、渡米していた大平正芳蔵相に日中平和友好条約の早期締結を訴える。
そして、第1回「世界平和会議」が開催されるグアムへ。平和の新章節の幕が開かれようとしていた。

小説『新・人間革命』
『人間革命』要旨