信行学

ここでは、私たちが日蓮大聖人の仏法を実践していくうえでの三つの基本──信・行・学について学びます。

自身の生命の変革を目指す、日蓮大聖人の仏法における修行の基本は、「信・行・学」です。

このうち、「信」は、末法の正法である大聖人の仏法、なかんずくその究極である御本尊を信ずることです。この「信」こそ、仏道修行の出発点であり、帰着点です。「行」は、生命を変革し、開拓していく具体的実践です。「学」は、教えを学び求める研鑽であり、正しい信心と実践への指針を与え、「行」を助け、「信」をより深いものにさせる力となります。

この三つのどれが欠けても、正しい仏道修行にはなりません。

「諸法実相抄」には「信・行・学」の在り方を次のように示されています。

「一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給え。あいかまえて、あいかまえて、信心つよく候て、三仏の守護をこうむらせ給うべし。行学の二道をはげみ候べし。行学たえなば仏法はあるべからず。我もいたし、人をも教化候え。行学は信心よりおこるべく候。力あらば、一文一句なりともかたらせ給うべし」
(1361㌻、通解──世界第一の御本尊を信じなさい。よくよく心して、信心を強く持って、釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏の守護を得ていきなさい。行学の両面の修行を励んでいきなさい。行学が絶えたところに仏法はありません。自分も実践し、人にも教え、導いていきなさい。行学は信心から起こるのです。力があるなら、一文一句でも語っていきなさい)

(1)信(しん)

「信」は信受ともいいます。仏の教えを信じて受け入れることです。この「信」こそ、私たちが仏の境涯に入るための根本なのです。

法華経には、釈尊の弟子のなかで智慧第一といわれた舎利弗も、ただ信受することによってのみ、法華経に説かれた法理を体得できたと説かれています。すなわち譬喩品には「汝舎利弗すら 尚お此の経に於いては 信を以て入ることを得たり」(法華経197㌻)とあります。これを「以信得入」といいます。

仏が覚った偉大な智慧・境涯を自身のものとしていく道は、ただこの「信」による以外にありません。仏の教えを信じて受け入れていった時に、初めて仏法で説く生命の法理の正しさを理解していくことができるのです。

末法の御本仏・日蓮大聖人は、御自身が覚られた宇宙根源の法である南無妙法蓮華経を、御本尊として図顕されました。すなわち大聖人が、末法の一切衆生のために、御自身の仏の生命を、そのまま顕されたのが、御本尊なのです。

ゆえに、この御本尊を、私たちが成仏の境涯を開くための唯一の縁(信仰の対象)として深く信ずることが、大聖人の仏法を修行する根本となります。御本尊を信受して唱題に励むとき、妙法の功力を自身の生命に開き顕し、成仏の境涯を確立していくことができるのです。

(2)行(ぎょう)

「行」とは、御本尊を信受したうえでの具体的な実践のことです。

仏法では、私たち自身の生命の内に、慈悲と智慧にあふれる仏の生命境涯、すなわち仏界が、本来、厳然と具わっていると説かれます。

そして仏道修行の目的は、まさしくこの自分自身の生命の内に秘められた仏の生命境涯を顕現して、絶対的幸福境涯を得ていくことにあります。

しかし、私たち自身の生命の内に具わった力も、それを現実の人生にあって、現し働かせていくためには、具体的な変革・開拓の作業が必要です。

仏の境涯を自身の生命に顕現するためには、道理に適った実践の持続が必要であり、これが「行」なのです。

この「行」には「自行」「化他」の両面があります。車の両輪のように、どちらが欠けても修行は成り立ちません。

「自行」とは自分が法の功徳を得るために修行することです。「化他」とは他人に功徳を受けさせるために仏法を教える実践をいいます。

また、「末法に入りて今日蓮が唱うる所の題目は、前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(1022㌻)と仰せです。末法においては、自身の成仏を目指す自行においても、人々を教え導く化他においても、成仏の根本法である南無妙法蓮華経を実践します。

すなわち、自分が御本尊を信じて題目を唱えるとともに、人々にも御本尊の功徳を教え、信心を勧めていく、自行化他にわたる実践が、大聖人の仏法における正しい仏道修行になるのです。

具体的には、自行とは勤行(読経・唱題)であり、化他とは折伏・弘教です。また広宣流布のための、さまざまな実践活動も、化他の修行となります。

生命変革の実践――勤行と弘教

「勤行」とは、御本尊に向かって読経・唱題することをいいます。これが生命変革の具体的な実践の一つです。

大聖人は、勤行を、曇った鏡を磨くことに譬えて次のように仰せです。

「譬えば、闇鏡も磨きぬれば、玉と見ゆるがごとし。ただ今も一念無明の迷心は、磨かざる鏡なり。これを磨かば、必ず法性真如の明鏡と成るべし。深く信心を発して日夜朝暮にまた懈らず磨くべし。いかようにしてか磨くべき。ただ南無妙法蓮華経と唱えたてまつるを、これをみがくとはいうなり」

(384㌻、通解──たとえば、曇っていてものを映さない鏡も、磨けば玉のように見えるようなものである。今の〈私たち凡夫の〉無明という根本の迷いに覆われた命は、磨かない鏡のようなものである。これを磨くなら、必ず真実の覚りの智慧の明鏡となるのである。深く信心を奮い起こして日夜、朝夕に、また怠ることなく自身の命を磨くべきである。では、どのようにして磨いたらよいのであろうか。ただ南無妙法蓮華経と唱えること、これが磨くということなのである)

この譬えで示されているように、鏡自体は磨く前も磨いた後も同じ鏡であり、別のものに変わるわけではありませんが、はたらきは全く違ってきます。同じように、私たち自身も、日々の勤行を持続することによって自身の生命が鍛え磨かれ、そのはたらきが大きく変革されてくるのです。

また、「弘教」について、「諸法実相抄」で「我もいたし人をも教化候え(中略)力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」(1361㌻)と仰せです。また「寂日房御書」では「かかる者の弟子・檀那とならん人人は、宿縁ふかしと思うて、日蓮と同じく法華経を弘むべきなり」(903㌻)と言われています。

勤行をして自分自身だけが境涯を変革するのではなく、自他共の幸福を目指して、一文一句でも仏法のことを人々に語っていくことが大切です。

それによって、自らの信心をさらに深めることができるとともに、人々の幸福のために戦う仏や菩薩の境涯を自身の命に呼び起こし、大聖人の真の弟子となっていくことができます。勤行とともに、弘教の実践が、自身の生命変革への大きな力となっていくのです。

また、法華経には「能く竊かに一人の為めにも、法華経の乃至一句を説かば、当に知るべし、是の人は則ち如来の使にして、如来に遣わされて、如来の事を行ず」(法華経357㌻)とあります(如来とは仏のこと)。

この文を踏まえて、大聖人は「法華経を一字一句も唱え、また人にも語り申さんものは、教主釈尊の御使なり」(1121㌻)と仰せです。

すなわち、私たちの化他行は、仏の使い(如来の使)として、仏の振る舞い・行動(如来の事)を実践する最も尊い行為なのです。

正行と助行――唱題が根本、読経は補助

生命変革の具体的な実践の一つの柱として、毎日、朝夕の勤行を行います。

日々の勤行では、御本尊を信じて題目を唱え、法華経の方便品第2(冒頭の散文の部分)と如来寿量品第16の自我偈を読誦します。

勤行は、御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱える唱題が根本なので、唱題を「正行」といいます。

また、方便品・自我偈の読誦は、「正行」である題目の功徳を助け顕すために行うので、「助行」といいます。

法華経28品(章)のなかでも、方便品・寿量品の自我偈を読誦するのは、この両品が万人成仏を説く法華経の最も重要な品だからです。方便品では法華経の前半である迹門の中心的な法理である「諸法実相」が説かれています。寿量品では法華経の後半である本門の中心的な法理である「久遠実成」が説かれています(本書157㌻以下を参照)。大聖人は「寿量品・方便品をよみ候えば、自然に余品はよみ候わねども、備わり候なり」(1202㌻)と仰せです。

正行と助行の関係について、日寛上人は「塩や酢が米や麺の味をひきたたせるように、方便品・寿量品を読誦することは、『正行』である題目の深遠な功徳を助け顕すはたらきがあり、このために『助行』というのである」(趣意)と教えられています。

私たちが勤行で方便品・自我偈を読誦するのは、御本尊の功徳をたたえるためなのです。

(3)学(がく)

「学」とは、教学の研鑽であり、日蓮大聖人が教え遺された「御書」を拝読することを根本にして、正しい仏法の法理を学ぶことです。

正しい仏法の法理を学ぶことによって、より深く完全な信に立つことができ、また正しい行をすることができるのです。

この教学の研鑽がないと、ともすれば、自分勝手な理解に陥ってしまう危険性があり、また誤った教えを説く者に、だまされてしまう恐れがあります。

「行学は信心よりおこる」と大聖人が仰せのように、教学の根本は信心であることは言うまでもありません。

また第2代会長戸田城聖先生が「信は理を求め、求めたる理は信を深からしむ」と述べているように、仏法を学び理解していくのは信心を深めていくためです。

大聖人は、さらに、「返す返すこの書をつねによませて御聴聞あるべし」(1444㌻)等と、御自身が認められた御書を繰り返し学んでいくよう呼びかけられています。また、大聖人に仏法の法理についてお尋ねした門下に対しては、その求道心をたたえられています。

日興上人も、「御書を心肝に染め」(1618㌻)と述べられ、また「学問未練にして名聞名利の大衆は予が末流に叶うべからざること」(同)と、教学の研鑽を強く勧められています。