ここでは、人々を絶対的な幸福に導く正法を判定する「基準」として、「三証」を取り上げ、日蓮大聖人の仏法が、末法の一切衆生の一生成仏を可能にする宗教であることを学びます。
三証とは、「文証」「理証」「現証」の三つをいいます。
「文証」とは、その宗教の教義が、よりどころとする経典(経文)や聖典などの裏づけをもっているかどうか、ということです。
日蓮大聖人は、「経文に明らかならんを用いよ、文証無からんをば捨てよとなり」(新555・全482)と、経文上に明確な根拠のある教義を用いるべきであり、経典によらない教えを用いてはならないと戒められています。文証に基づかない教義は、所詮、自分勝手な主張になるからです。仏教であるなら、釈尊の教え、すなわち経文に基づくものでなければなりません。私たちの場合で言えば、文証とは、大聖人の「御書」に基づいているかどうかです。
次に「理証」とは、その宗教の教義や主張が道理にかなっているかどうか、ということです。「仏法と申すは道理なり」(新1590・全1169)と仰せのように、仏法はあくまで道理を重んじます。道理に外れた主張は用いてはならないのです。
「現証」とは、その宗教の教義に基づいて信仰を実践した結果が、生命や生活、そして、社会にどのように表れたか、ということです。宗教とは、観念的なものではなく、人々の生活や人生に必ず大きな影響を与えるものです。そして、その信仰の実践が現実の上で、どう生活や人生に影響を与えたかで、宗教の勝劣や浅深を判断していくべきです。
大聖人は「日蓮、仏法をこころみるに、道理と証文とにはすぎず。また道理・証文よりも現証にはすぎず」(新1941・全1468)と仰せです。道理とは理証のことであり、証文とは文証のことです。この御文に明らかなように、大聖人が、一番重視されたのが現証です。それは、本来、現実の人間を救うために仏法があるからです。