宿命転換

人生には、さまざまな苦難があります。日蓮大聖人の仏法は、生命を根源から変革して、自身の運命を切り開き、現在と未来にわたって、幸福境涯を確立する宿命転換の仏法です。ここでは、宿命転換の原理と、宿命を使命に変えていく真の仏法の実践を学びます。

宿命転換(しゅくめいてんかん)

人生の悩みや苦難は、さまざまです。そのなかには、今世の自分自身の行動や判断が原因になって現れるものもありますが、なかには、今世に原因を見いだすことができないものもあります。〝自分は何も悪いことをしていないのに、なぜ、このような苦しみを受けなければならないのか〟と思うような苦難に直面する場合もあります。

仏法では、このような苦難は、過去世において自分が行った行為(宿業)の結果が今世に現れたものであるととらえます。

「業」とは、もともとは「行為」を意味する言葉です。今世の幸・不幸に影響力をもつ過去世の行為を「宿業」といいます。宿業には、善と悪の両方がありますが、今世の苦悩をもたらす過去世の悪業を宿業という場合が多いといえます。

仏法では、〝三世の生命〟、あるいは〝三世の因果〟を説きます。すなわち、生命は今世だけのものではなく、過去世・現在世・未来世の三世にわたるものであり、過去世の行為が因となって、現在世(今世)の結果として現れ、また、現在世の行為が因となって、未来世の果をもたらすと見るのです。

過去世に悪因があれば、今世に苦果(苦悩に満ちた結果)があり、善因があれば、楽果(福徳あふれる安楽の結果)があるとするのが、仏教一般で言われる因果です。

しかし、これでは、現在の苦しみの原因はわかっても、それを今世において、ただちに変革することはできず、未来世にわたって、生死を繰り返しながら、一つ一つの悪業の罪を清算していく以外に、道はないことになります。このように、宿業の考え方は、往々にして、希望のない宿命論に陥りやすいのです。

これに対して、「宿命の転換」を説くのが、日蓮大聖人の仏法です。

大聖人は、「佐渡御書」の中で、御自身が大難を受けているのは、仏教で一般に言われる通常の因果によるものではなく、過去において法華経を誹謗した故であると述べられています(960㌻)。

これは、万人成仏、人間尊敬、自他共の幸福を説ききった正法である法華経を誹謗すること、すなわち謗法(正法を謗ること)こそが根本的な罪業であり、あらゆる悪業を生む根源的な悪であるということを教えられているのです。

この正法に対する不信・謗法という根本的な悪業を、正法を信じ、守り、広めていくという実践によって、今世のうちに転換していくのが、大聖人の仏法における宿命転換です。そして、その実践の核心が、南無妙法蓮華経の題目です。

大聖人は、「衆罪は霜露の如く 慧日は能く消除す」(法華経724㌻)という普賢経(法華経の結経である観普賢菩薩行法経)の文を引いて、自身の生命に霜や露のように降り積もった罪障も、南無妙法蓮華経の題目の慧日(智慧の太陽)にあえば、たちまちのうちに消し去ることができると言われています(786㌻)。

御本尊を信受して、自行化他にわたる唱題に励み、自身の胸中に太陽のような仏界の生命が現れれば、さまざまな罪業も霜露のように消えていくのです。

転重軽受(てんじゅうきょうじゅ)

私たちは、信心に励んでいても、人生の苦難に直面することがあります。また、広宣流布のために戦うと、それを妨げようとする障魔が起こり、難にあいます。

大聖人は、このような苦難に出あって宿命転換できるのは、むしろ「転重軽受」の功徳であると教えられています。

転重軽受とは、「重きを転じて軽く受く」と読みます。

過去世の重い罪業によって、今世だけでなく、未来世にわたって、重い苦しみの報いを受けていかなくてはならないところを、現世に正法を信じ、広めると、その実践の功徳力によって、重罪の報いを一時に軽く受けて、罪業をすべて消滅させることができるのです。

ゆえに、大聖人は転重軽受の功徳について「地獄の苦しみぱっときえて」(1000㌻)と仰せです。

苦難は、宿業を消して、生命を鍛錬する重要な機会となります。

そのことを大聖人は、「鉄は鍛え打てば剣となる。賢人・聖人は罵られて試されるものである。私がこのたび受けた佐渡流罪という処罰は、世間の罪によるものではまったくない。もっぱら過去世の重罪を今世で消し、未来世の地獄・餓鬼・畜生の三悪道の苦しみを免れるためのものなのである」(958㌻、通解)と仰せです。

願兼於業(がんけんおごう)

苦難に直面しても、信心を貫いて宿命転換する人にとっては、人生の意味が大きく変わります。

法華経には、「願兼於業」の法理が説かれています。願とは願生、業とは業生です。菩薩は願いの力で生まれ(願生)、普通の人々は業によって生まれます(業生)。

願兼於業とは、修行によって偉大な福徳を積んだ菩薩が、悪世で苦しむ人々を救うために、わざわざ願って、自らの清浄な業の報いを捨てて、悪世に生まれることです。

その結果、菩薩は、悪業の人と同じように、悪世の苦しみを受けます。ここから難の意義をとらえ返すと、信心で難を乗り越える人にとっては、悪世に生きて苦難を受けるのは、決して宿命ではなく、実は人を救う菩薩の誓願のゆえであり、苦難を共有し、それを乗り越える範を示すものであることになります。

この願兼於業の法理をふまえた生き方を、池田先生は「宿命を使命に変える」とわかりやすく示しています。

「誰しも宿命はある。しかし、宿命を真っ正面から見据えて、その本質の意味に立ち返れば、いかなる宿命も自身の人生を深めるためのものである。そして、宿命と戦う自分の姿が、万人の人生の鏡となっていく。

すなわち、宿命を使命に変えた場合、その宿命は、悪から善へと役割を大きく変えていくことになる。

『宿命を使命に変える』人は、誰人も『願兼於業』の人であるといえるでしょう。
だから、全てが、自分の使命であると受け止めて、前進し抜く人が、宿命転換のゴールへと向かっていくことができるのです」(『御書の世界』第2巻)