信心即生活

日蓮大聖人の仏法は、現実の人生の中で「崩れざる幸福境涯」を築いていくための信仰です。そのためには日々の生活の中で信心の実践を積み重ねていくことが重要です。

ここでは、日蓮大聖人の仏法の実践において大切な柱となる「妙法の功徳」「諸天善神」「異体同心」「信心即生活」「人の振る舞い」について学びます。

妙法の功徳

私たちは、南無妙法蓮華経という最高の法を正しく信じ持てば、妙法に具わる限りない功徳を受け切っていくことができます。

妙法の根本であり究極の功徳は、成仏、すなわち揺るぎない幸福境涯を確立することです。

妙法を信じて実践を始めることは、成仏という絶対的な幸福境涯への軌道に入るということです。妙法を根本に生きることで、おのずと正しい生き方となり、幸福を築いていくことができます。

大聖人は、次のように仰せです。

「この曼荼羅能く能く信ぜさせ給うべし。南無妙法蓮華経は師子吼のごとし、いかなる病さわりをなすべきや。(中略)遊行して畏れ無きこと、師子王のごとくなるべし」(新1633・全1124)

私たちは題目の力によって、人生のさまざまな困難をも幸福への妨げとはならないようにし、どのような環境にあっても師子王のような恐れを知らない境涯でいられるのです。

「法華経を信ずる人は、さいわいを万里の外よりあつむべし」(新2037・全1492)と仰せのように、妙法を受持する人は、幸福をあらゆるところから招きよせるのです。

反対に、仏法を誹謗し、因果の理法に反すれば、生命に悪因を刻むとともに、生活の上に罰の現証が現れます。

罰の現証は、不幸の道へと陥ることを知らせる兆しであり、警鐘ともいえます。自身の誤りに気付き、信仰の姿勢や生き方を見つめ直すことで、あらためて妙法を深く実践する決意が生まれます。

見方を変えれば、罰もまた、人々を正しく導く妙法の優れた性質の一つなのであって、功徳ととらえ返すことができるのです。

諸天善神

「諸天善神」とは、正法を受持する人とその国土を守護する一切の神々をいいます。

「諸天」とは天界の衆生をいい、「善神」は人々を守り支えるものをいいます。

諸天善神は、一定の実体を持つ存在ではなく、正法を実践する人を守護する種々のはたらきをいいます。

私たちが正法を実践して、善の生き方をしていけば、それに応じて、周囲の人々や環境に具わる善のはたらきが呼び起こされ、諸天善神として、私たちを守り支えます。

大聖人は、「神の護ると申すも、人の心つよきによるとみえて候」(新1608・全1186)と仰せです。私たちの正法を護り持つ信心の強弱によって、諸天の守護が強くも弱くもなるのです。

異体同心

「異体同心」とは、広宣流布を進めるにあたって、私たちが信心で団結をしていく時に、最重要とすべき指針です。

「異体」とは、それぞれの見かけ、個性、特質、立場などが異なることです。「同心」とは、志、目的を同じくすることです。各人が同じ心に立って、力を合わせていくことをいいます。

仏法の実践においては、万人成仏を実現するために妙法を説き弘めていく「広宣流布」こそが、仏の大願であり、根本の目的です。「同心」の「心」とは、「信心」のことであり、「広宣流布」という大願に心を合わせていくことです。

各人の個性や特質を生かし、一人一人の可能性を最大限に発揮しながら、広宣流布を目指していくことが、異体同心です。

これに対して、見かけは同じような姿であっても、それぞれの志や目的が違い、ばらばらになっている状態を「同体異心」といいます。

大聖人は、こう仰せです。

「異体同心なれば万事を成じ、同体異心なれば諸事叶うことなし」「日蓮が一類は、異体同心なれば、人々すくなく候えども、大事を成じて一定法華経ひろまりなんと覚え候」(新2054・全1463)

信心の団結によって、さまざまな難を乗り越えながら前進すれば、仏法が必ず広まっていくことは間違いないと、大聖人は教えられています。

信心即生活

一般に、信仰とは日常の生活から離れた特別な世界の事柄であるという考えや、日常生活の中でも信仰の時間と生活の時間とは別なものであるとする見方があります。

しかし、日蓮大聖人の仏法においては、信仰と生活とは、切り離してとらえるものではありません。

御書には、「御みやづかいを法華経とおぼしめせ」(新1719・全1295)とあります。「御みやづかい」とは、主君などに仕えることですが、今日の私たちの立場にあてはめれば、なすべきこと、果たすべき役割であり、職業・仕事・生活に当たります。

この御文は、日々の生活が、そのまま仏道修行の場であり、信心を根本とした自身の生き方を示す場であることを教えられているのです。

大聖人の仏法においては、信心と生活は一体です。ゆえに、創価学会では、「信心即生活」といって、生活はその人の信心の表れであるととらえて、信頼される社会人として、生活に勝利していくべきことを教えているのです。

人の振る舞い

仏法は、「人間としての勝利」を教えた宗教です。

日蓮大聖人は、「教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞いにて候いけるぞ」(新1597・全1174)と仰せです。

釈尊がこの世に生まれて仏法を説いた根本の目的(出世の本懐)は、特別なことではなく、人間として、どう生きるべきかを示すことにあったとの仰せです。

人間社会にあって良識ある振る舞いを貫き、人格の輝きをもって、職場・地域などの身近な人々から信頼され、尊敬される存在となっていくことが、信心の証しです。

最高の「人の振る舞い」とは、「人を敬う」行動です。

万人の生命の中に仏の生命があるととらえて、その仏の生命を尊重し、万人を敬っていく行動です。根本は、万人を仏にしていこうとする誓願の生き方です。それは具体的には、目の前の“一人”を大切にしていく実践となって表れます。

法華経では、万人の中に秘められている仏の生命を敬い、あらゆる人を礼拝していく不軽菩薩の実践が説かれます。

自分の仏界をまだ自覚していない人でも仏の生命を具えており、これを開き顕す可能性をもっています。したがって、万人を「仏子(仏の子)」として尊重していく生命尊厳、人間尊敬こそが、仏法の精神です。この精神があれば、他人を踏みにじる一切の暴力は生まれないでしょう。

万人尊重の原理から、対話をもって自他共の幸福や社会の変革を実現していこうとするのが日蓮大聖人の仏法です。