日蓮大聖人の御生涯(2)

竜口の法難~佐渡流罪

(4)竜の口の法難と発迹顕本

文永5年(1268年)、蒙古(「蒙古」は歴史的な呼称であり、当時のモンゴル帝国を指す)からの国書が鎌倉に到着しました。そこには、蒙古の求めに応じなければ、兵力を用いるとの意が示されていました。「立正安国論」で予言した他国侵逼難が、現実のものとなって迫ってきたのです。

そこで大聖人は、時の執権・北条時宗をはじめとする幕府要人や鎌倉の諸大寺の僧ら、あわせて11カ所に書状(十一通御書)を送り、予言の的中を明示するとともに、諸宗の僧らに公の場での法論を迫りました。

しかし、幕府も諸宗も、大聖人のはたらきかけを黙殺しました。それどころか、幕府は大聖人の教団を危険視し、その弾圧に向かっていったのです。

このころ、蒙古の調伏(敵などを打ち破り服従させること)の祈禱を行う真言僧が影響力を増してきました。また、真言律宗の極楽寺の良観(忍性)が、幕府と結び付いて大きな力を強めていました。

大聖人は、民衆と社会に悪影響を与えるこれら諸宗に対しても、一歩も退かず破折を開始します。

文永8年(1271年)夏に大旱魃(長期間の日照り)が起こった時、良観が、祈雨(雨乞い)をすることになりました。そのことを聞かれた大聖人は、良観に申し入れをされました。

それは、もし良観が7日のうちに雨を降らせたなら、大聖人が良観の弟子となり、もし雨が降らなければ、良観が法華経に帰伏(帰順し従うこと)せよ、というものでした。

その結果は、良観の祈雨が行われた最初の7日間は雨は一滴も降らず、良観は祈祷の7日延長を申し入れて祈りましたが、それでも雨は降らないばかりか、暴風が吹くというありさまで、良観の大敗北となりました。

しかし、良観は自らの敗北を素直に認めず、大聖人に対する怨みをさらに募らせ、配下の念仏僧の名で大聖人を訴えたり、幕府要人やその夫人たちにはたらきかけて、権力による弾圧を企てました。

良観は、当時の人々から、徳のある高僧として崇められていました。しかし、実際には権力と結託して、権勢におごっていたのです。
同年9月10日、大聖人は幕府から呼び出されて、侍所の所司(侍所は軍事・警察を担当する役所。所司は次官のこと。長官は執権が兼務)である平左衛門尉頼綱(平頼綱)の尋問を受けました。

この時、大聖人は平左衛門尉に対して仏法の法理のうえから、国を治めていく一国の指導者のあるべき姿を説いて諫められました。

2日後の文永8年(1271年)9月12日、平左衛門尉が武装した兵士を率いて草庵を襲い、大聖人は謀叛人(時の為政者に叛逆する人)のような扱いを受けて捕らえられました。この時、大聖人は、平左衛門尉に向かって「〝日本の柱〟である日蓮を迫害するなら、必ず自界叛逆・他国侵逼の二難が起こる」と述べて、強く諫暁されました(第2回の国主諫暁)。

大聖人は、夜半に突然、護送され、鎌倉のはずれにある竜の口に連行されました。平左衛門尉らが、内々で大聖人を斬首することを謀っていたのです。しかし、まさに刑が執行されようとしたその時、突然、江ノ島の方から〝まり〟のような大きな光りものが夜空を北西の方向へと走りました。兵士たちはこれに恐れおののいて、刑の執行は不可能となりました(竜の口の法難)。

この法難は、大聖人御自身にとって極めて重要な意義をもつ出来事でした。すなわち、大聖人は竜の口の法難を勝ち越えた時に、宿業や苦悩を抱えた凡夫という迹(仮の姿)を開いて、凡夫の身に、生命にそなわる本源的な、慈悲と智慧にあふれる仏(久遠元初の自受用報身如来)という本来の境地(本地)を顕されたのです。

これを「発迹顕本(迹を発いて本を顕す)」といいます。

この発迹顕本以後、大聖人は末法の御本仏としての御振る舞いを示されていきます。そして、万人が根本として尊敬し、帰依していくべき御本尊を図顕されていきました。

(5)佐渡流罪

竜の口の法難後のしばらくの間、幕府は大聖人への処遇を決められず、約1カ月間、大聖人は相模国の依智(神奈川県厚木市北部)にある本間六郎左衛門重連(佐渡国の守護代)の館に留め置かれました。その間、放火や殺人の罪が門下に着せられるなど、さまざまな弾圧が画策されました。

結局、佐渡流罪と決まり、大聖人は、文永8年(1271年)10月10日に依智を出発し、11月1日に佐渡の塚原の墓地にある荒れ果てた三昧堂(葬送用の堂)に入りました。大聖人は、厳寒の気候に加えて、衣類や食料も乏しい中、佐渡の念仏者などから命を狙われるという厳しい状況に置かれたのです。

弾圧は、鎌倉の門下にも及び、土牢に入れられたり、追放、所領没収などの処分を受けたりします。そして、多数の門下が、臆病と保身から、大聖人の仏法に疑いを起こして退転してしまいました。

翌・文永9年(1272年)1月16日、17日には、佐渡だけでなく北陸・信越などから諸宗の僧ら数百人が集まり、大聖人を亡きものにしようとしました。本間重連に制止され、法論で対決することになりました。大聖人は各宗の邪義をことごとく論破されました(塚原問答)。

2月には北条一門の内乱が起こり、鎌倉と京都で戦闘が行われました(二月騒動、北条時輔の乱)。大聖人が竜の口の法難の際に予言された自界叛逆難が、わずか150日後に現実になったのです。

同年初夏、大聖人の配所は、塚原から一谷に移されましたが、念仏者などに命を狙われるという危険な状況に変わりはありませんでした。

この佐渡流罪の間、日興上人は、大聖人に常随給仕して苦難をともにされました。また、佐渡の地でも、阿仏房・千日尼夫妻をはじめ、大聖人に帰依する人々が現れました。

大聖人は、この佐渡の地で多くの重要な御書を著されていますが、とりわけ重要な著作が「開目抄」と「観心本尊抄」です。

文永9年2月に著された「開目抄」は、日蓮大聖人こそが法華経に予言された通りに実践された末法の「法華経の行者」であり、末法の衆生を救う主師親の三徳を具えられた末法の御本仏であることを明かされています(人本尊開顕の書)。

また文永10年(1273年)4月に著された「観心本尊抄」は、末法の衆生が成仏のために受持すべき南無妙法蓮華経の本尊について説き明かされています(法本尊開顕の書)。

文永11年(1274年)2月、大聖人は赦免され、3月に佐渡を発って鎌倉へ帰られました。

4月に平左衛門尉と対面した大聖人は、蒙古調伏の祈禱を真言などの邪法によって行っている幕府を強く諫めるとともに、平左衛門尉の質問に答えて、蒙古の襲来は必ず年内に起こると予言されました(第3回の国主諫暁)。

この予言の通り、同年10月に蒙古の大軍が九州地方を襲ったのです(文永の役)。

これで、「立正安国論」で示された自界叛逆難・他国侵逼難の二難の予言が、二つとも的中したことになりました。

このように、幕府を直接に諫暁して、国難を予言した御事跡は、これで3度目になります(1度目は「立正安国論」提出の時、2度目は竜の口の法難の時)。この予言が適中したことから、日蓮大聖人は「余に三度のこうみょうあり」(287㌻)と述べられています(三度の高名)。

* 高名とは、特に優れた「名誉」「名声」のこと。

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日蓮大聖人の御生涯 第2話