信心の根本的な目的は、私たち一人一人が仏の境涯を得ることです。
仏法を実践する目的は、自身の一生成仏を実現するとともに、自他共の幸福を確立していくことにあります。その実践の指標が「立正安国」と「広宣流布」です。
御本尊を信受して純真に自行化他の実践に励むなら、誰でも必ず一生のうちに成仏の境涯を得ることができます。これを「一生成仏」といいます。
成仏とは、現在の自分と全く異なった特別な人間になるとか、死後に次の一生で現実世界を離れた浄土に生まれるなどということではありません。
御書には成仏の「成」について「『成』は開く義なり」(新1049・全753)とあります。自身の内に具わる仏の生命境涯(仏界)を開くことが成仏にほかなりません。
成仏とは、他の世界ではなく、あくまでもこの現実世界において、凡夫すなわち普通の人間である私たちが、その身のままで、自身に仏の生命境涯を開き顕し、何ものにも崩されない絶対的な幸福境涯を築くことをいうのです。
御書に「桜梅桃李の己々の当体を改めずして無作の三身と開見す」(新1090・全784、趣意――桜、梅、桃、李がそれぞれの特質を持つように、私たちもそれぞれの特質を改めることなく、そのままの姿で無作三身の仏であると開き顕れるのである)と仰せです。
* 「無作三身の仏」とは何も飾らないそのままの姿で仏の特質を全て具えている真実の仏のこと
成仏とは、人間に具わる本来の仏の境地を現すことであって、人間からかけ離れた特別な存在になることではありません。凡夫の身に仏という最高の人間性を開き顕すことが大聖人の成仏観です。
このような成仏を「即身成仏」といいます。即身成仏とは、私たち衆生が現実の凡夫の身を改めることなく、直ちに仏の境涯を得ることをいいます。
なお、凡夫の身のままで成仏できることを「即身成仏」、一生のうちに成仏できることを「一生成仏」といいますが、どちらも同じ法理を表現した言葉です。
法華経以外の諸経では、「成仏」が説かれていても、少なくとも二つのことが条件とされていました。
一つは、二乗(声聞・縁覚)・悪人・女人ではないことです。
二つには、何度も何度も生死を繰り返して仏道修行を行い(歴劫修行)、凡夫の境涯を断滅して仏の境涯に到達するとされたことです。
これに対して、法華経では、誰もが等しく、自身のその身に仏界の生命境涯を開くことができると説いたのです。
そして、日蓮大聖人は、万人が仏の境涯を現すための根源の法こそ、南無妙法蓮華経であると覚知され、根源の法と一体となった大聖人御自身の生命を、南無妙法蓮華経の御本尊として顕されました。
私たちは、御本尊を信受し、南無妙法蓮華経の題目を唱える実践(唱題)をすることで、誰もが自らの生命に大聖人と同じ仏の境涯を開き顕すことができるのです。
即身成仏の法理を、別な角度から表したのが「煩悩即菩提」「生死即涅槃」です。
煩悩に覆われ、悪業を積み、苦悩にさいなまれている凡夫であっても、自身の内に仏界が具わっているという真実に目覚めれば、仏の覚り(菩提)の智慧を発揮し、苦悩から解放され、歓喜に満ちた自在の境地を得ることができます。
煩悩に覆われた苦悩の身が、そのまま菩提の智慧に輝く自在の身となる。煩悩はむしろ菩提に至る力ともなるのです。この法理を「煩悩即菩提」といいます。
* 「即」とは「そのまま」の意味で、両者が分かち難く結びつくこと
「生死即涅槃」とは、御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えていけば、生死によってもたらされる苦しみの境涯にある生命に、仏の覚りによって得られる安穏な境涯(涅槃)を開き顕していけることをいいます。
「煩悩即菩提」「生死即涅槃」の法理は、妙法の信心に立脚する時、あらゆる苦悩を自身の成長と幸福の因に転じていく積極的な生き方が可能になることを教えているのです。
第2代会長・戸田城聖先生は、幸福には「相対的幸福」と「絶対的幸福」があると述べています。
相対的幸福とは、物質的に充足したり、欲望が満たされたりした状態をいいます。しかし、欲望には際限がないし、たとえ、一時は満ち足りたようでも永続性はありません。外の条件が整った場合に成立する幸福なので、条件が崩れた場合には、その幸福も消えてしまいます。
これに対して、絶対的幸福とは、どこにいても、また、何があっても、生きていること自体が幸福である、楽しい、という境涯をいいます。それは外の条件に左右されることのない幸福なので、絶対的幸福というのです。成仏とは、この絶対的幸福境涯の確立をいいます。
また、環境に依存する相対的幸福が「死」によって途絶えるのに対し、絶対的幸福である仏の境涯は、「自身法性の大地を、生死生死と転り行くなり」(新1010・全724、通解――妙法を信仰する者は、自身の仏界の大地を、生死を貫いて進んでいくのである)と仰せのように、死をも超えて存続していくのです。
日蓮大聖人は、現実の社会に自他共の幸福を確立していく実践の目標として、「立正安国」と「広宣流布」を説かれました。
日蓮大聖人の仏法は、各人の生命境涯を変革し、今世のうちに絶対的幸福境涯を開くことを可能にする教えです。そして、その各人の生命境涯の変革を通して、社会全体の平和の実現を目指しています。
大聖人は、そのための原理を「立正安国論」の中で示されました。
「立正安国」とは「正を立て、国を安んず」と読みます。
「立正」とは、人々が人生のよりどころとして正法を信受することであり、また、仏法の生命尊厳の理念が、社会を動かす基本の原理として確立されることです。「安国」とは、社会の平和・繁栄と人々の生活の安穏を実現することです。
「立正安国論」における「国」とは、権力を中心にした統治機構という面とともに、より一歩深く、民衆の生活の基盤としてとらえられています。その意味で、人間が形成している社会体制だけでなく、自然環境の国土も含まれます。
また、大聖人は「王は民をおやとし」(新1886・全1554)と述べられ、権力者は民衆を根本とすべきであるとされています。また、国主となりながら、「民衆の歎き」を知らない者は、悪道に堕ちると言われています(新379・全36)。
「立正安国論」は、直接的には当時の日本の安国の実現のために著された書ですが、その根底となっている精神は、民衆の安穏の実現にあり、したがって、「立正安世界」ともいうべき全世界の平和と人々の幸せを実現することにあります。
大聖人が、当時の人々の苦悩を解決するため、「立正安国論」を著し、権力者を諫められたこと自体、仏法を行ずる者は、仏法の理念・精神を根本にして、積極的に社会の課題に関わっていくべきことを、身をもって示されたものと拝察できます。
「立正安国論」に「汝、すべからく一身の安堵を思わば、まず四表の静謐を禱るべきものか」(新44・全31、通解――自身の安心を考えるなら、あなたはまず社会全体の静穏を祈るべきではないのか)と仰せです。
創価学会が、今日、仏法の理念を根本に、平和・文化・教育・人権などの分野で、地球的課題の解決に取り組んでいるのも、「立正安国」の法理と精神に基づく実践にほかなりません。
広宣流布とは、仏の覚りである正法を広く人々に流布し、万人を仏の境涯に導くことであり、それこそが、仏法の目標です。
法華経でも釈尊は弟子たちに広宣流布を説き、「我滅度して後、後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、断絶して悪魔・魔民の諸天・竜・夜叉・鳩槃荼等に其の便りを得しむること無かれ」(法華経601㌻、通解――私〈釈尊〉が入滅した後、末法において、全世界に正法を広宣流布して断絶させず、決して悪魔・魔の手下である諸天・竜・夜叉・鳩槃荼などの魔物につけ入らせてはならない)と示しています。
この経文は、「後の五百歳」、すなわち末法において、妙法を全世界(一閻浮提)に広宣流布していくべきことを述べたものです。
また、法華経では、末法の広宣流布が、久遠(計り知れないほどのはるか昔)からの釈尊の弟子である「地涌の菩薩」に託されるのです。
大聖人は、この地涌の菩薩の使命を果たし、末法の悪世で、命に及ぶ幾多の大難を忍ばれて、南無妙法蓮華経の大法を弘通されました。
御書には広宣流布について、次のように仰せです。
「『大願』とは、法華弘通なり」(新1027・全736)
「日蓮が慈悲曠大ならば、南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ」(新261・全329)
まさに、広宣流布こそ、日蓮大聖人の根本の願いです。大聖人は、弟子にも、広宣流布に生き抜き、成仏を果たし、立正安国を実現していくよう、繰り返し促されています。
この大聖人の御精神を受け継いで、御書に仰せの通りに妙法を弘通し、広宣流布を進めてきた和合僧(仏法実践者の集い)が創価学会です。
御書に「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」(新1791・全1360)と仰せのように、大聖人のお心のままに妙法を弘めてきた創価学会こそ、広宣流布の使命を担う地涌の菩薩の団体にほかなりません。
大聖人滅後七百年、創価学会が出現するまで、誰も妙法を弘めることはできませんでした。創価学会が釈尊と大聖人の未来記(予言)を実現したのです。ここに創価学会が広宣流布の使命を担って出現した、仏意仏勅(仏の意〈意思〉、仏の勅命〈命令〉)の教団である根拠があります。
そして、「閻浮提に広宣流布」と経文に示されたように、事実の上で、日本はもとより、世界中に妙法を弘めてきたのです。