十界論(2)

(人界、天界、六道から四聖へ)

(5)人界(にんかい)

人界は、穏やかで平静な生命状態にあり、人間らしさを保っている境涯をいいます。大聖人は「平らかなるは人」と仰せです。

この人界の特質は、因果の道理を知り、物事の善悪を判断する理性の力が明確に働いていることです。

大聖人は「賢きを人といい、はかなきを畜という」(1174㌻)と言われています。善悪を判別する力を持ち、自己のコントロールが可能になった境涯です。

この人間らしい境涯も、決して努力なしに持続できるものではありません。実際に、悪縁が多い世間にあって、人間が「人間らしく生きる」ことは難しいものです。それは、絶え間なく向上しようとする自分の努力がなければ不可能です。いわば人界は「自分に勝つ」境涯の第一歩といえます。

また人界の生命は「聖道正器」といわれ、仏道(聖道)を成ずることができる器であるとされています。

人界は悪縁にふれて悪道に堕ちる危険性もある半面、修行に励むことによって仏法の覚りの境涯である四聖への道を進むことができる可能性を持っているのです。

(6)天界(てんかい)

天界の天とは、もともと古代インドにおいては、地上の人間を超えた力を持つ神々のこと、また、それらが住む世界という意味です。古代インドでは、今世で善い行いをした者は来世に天に生まれると考えられていました。

仏法では、天界を生命の境涯の一つとして位置づけています。努力の結果、欲望が満たされた時に感じる喜びの境涯です。大聖人は「喜ぶは天」と仰せです。

欲望といっても、睡眠欲や食欲などの本能的欲望、新しい車や家が欲しいというような物質的欲望、社会で地位や名誉を得たいという社会的欲望、未知の世界を知ったり、新たな芸術を創造したいというような精神的欲望などがあります。それらの欲望が満たされ、喜びに浸っている境地が天界です。

しかし、天界の喜びは永続的なものではありません。時の経過とともに薄らぎ、消えてしまいます。ですから天界は、目指すべき真実の幸福境涯とはいえないのです。

六道(ろくどう)から四聖(しせい)へ

以上の地獄界から天界までの六道は、結局、自身の外の条件に左右されています。

欲望が満たされた時は天界の喜びを味わったり、環境が平穏である場合は人界の安らぎを味わえますが、ひとたびそれらの条件が失われた場合には、たちまち地獄界や餓鬼界の苦しみの境涯に転落してしまいます。

環境に左右されているという意味で、六道の境涯は、本当に自由で主体的な境涯とはいえないのです。

これに対して、その六道の境涯を超え、環境に支配されない主体的な幸福境涯を築いていこうとするのが仏道修行です。そして仏道修行によって得られる覚りの境涯が声聞、縁覚、菩薩、仏の四聖の境涯です。

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