人界は、穏やかで平静な生命状態にあり、人間らしさを保っている境涯をいいます。大聖人は「平らかなるは人」と仰せです。
この人界の特質は、因果の道理を知り、物事の善悪を判断する理性の力が明確にはたらいていることです。
大聖人は「賢きを人と云い、はかなきを畜という」(新1597・全1174)と言われています。善悪を判別する力を持ち、自己のコントロールが可能になった境涯です。
この人間らしい境涯も、決して努力なしに持続できるものではありません。実際に、悪縁が多い世間にあって、人間が「人間らしく生きる」ことは難しいものです。それは、絶え間なく向上しようとする自分の努力がなければ不可能です。いわば人界は「自分に勝つ」境涯の第一歩といえます。
天界は、努力の結果、欲望が満たされた時に感じる喜びの境涯です。大聖人は「喜ぶは天」と仰せです。
欲望といっても、睡眠欲や食欲などの本能的欲望、新しい車や家が欲しいというような物質的欲望、社会で地位や名誉を得たいという社会的欲望、未知の世界を知ったり、新たな芸術を創造したいというような精神的欲望などがあります。それらの欲望が満たされ、喜びに浸っている境地が天界です。
しかし、天界の喜びは永続的なものではありません。時の経過とともに薄らぎ、消えてしまいます。ですから天界は、目指すべき真実の幸福境涯とはいえないのです。
以上の地獄界から天界までの六道は、結局、自身の外の条件に左右されています。
欲望が満たされた時は天界の喜びを味わったり、環境が平穏である場合は人界の安らぎを味わったりしますが、ひとたびそれらの条件が失われた場合には、たちまち地獄界や餓鬼界の苦しみの境涯に転落してしまいます。
環境に左右されているという意味で、六道の境涯は、真に自由で主体的な境涯とはいえません。
これに対して、その六道の境涯を超え、環境に支配されない主体的な幸福境涯を築いていこうとするのが仏道修行です。
そして、仏道修行によって得られる覚りの境涯が、声聞、縁覚、菩薩、仏の四聖の境涯です。