十界論(3)

(声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界)

⑦声聞界、⑧縁覚界

声聞界と縁覚界の二つをまとめて「二乗」と呼びます。

声聞界は、仏の教えを聞いて部分的な覚りを獲得した境涯をいいます。これに対して、縁覚界は、さまざまなものごとを縁として、独力で仏法の部分的な覚りを得た境涯です。

二乗の部分的な覚りとは、「無常」を覚ることです。
私たちも日々の生活の中で、自分自身を含めて万物が無常の存在であることを強く感ずることがあります。

ゆえに大聖人は「観心本尊抄」で「世間の無常は眼前に有り。あに人界に二乗界無からんや」(新127・全241)と言われ、無常を感ずる人界には二乗界(声聞界と縁覚界のこと)が具わっているとされたのです。

しかし、二乗が得た覚りは、仏の覚りから見れば、あくまでも部分的であり、完全なものではありません。

ところが、二乗はその低い覚りに満足し、仏の真実の覚りを求めようとしません。仏の境涯の偉大さは認めていても、自分たちは、そこまで到達できるとは考えず、自らの低い覚りに安住してしまうのです。

また、二乗は自らの覚りのみにとらわれ、他人を救おうとしないエゴイズムに陥っています。このように、「自分中心」の心があるところに二乗の限界があります。

⑨菩薩界

菩薩とは、仏の覚りを得ようとして、不断の努力をする人という意味です。
また、仏の教えを人々に伝え弘めて人々を救済しようとします。

すなわち、菩薩の境涯の特徴は、仏界という最高の境涯を求めていく「求道」とともに、自らが仏道修行で得た利益を、他者に対しても分かち与えていく「利他」の実践があることです。

現実の世界の中で、人々の苦しみと悲しみに同苦し、抜苦与楽(苦を抜き、楽を与える)の実践をして、自他共の幸福を願うのが菩薩の心です。

菩薩界の境涯の根本は「慈悲」です。大聖人は、「観心本尊抄」で「無顧の悪人もなお妻子を慈愛す。菩薩界の一分なり」(新127・全241)と仰せです。

他人を顧みることのない悪人ですら自分の妻子を慈愛するように、生命には本来、他者を慈しむ心が具わっています。

慈悲の心を万人に向け、生き方の根本にすえるのが菩薩界です。

⑩仏界

仏界は、仏が体現した尊極の境涯のことです。自身の生命の根源が妙法であると覚知することによって開かれる、広大で福徳豊かな境涯をいいます。

仏界は、誰人でも、私たちの生命に本来、具わっています。ただ、それを悩み多き現実生活の中で現すことは難しいので、大聖人は、全ての人々が仏界の生命を現していくための方途として、御本尊を顕されました。

御本尊には、末法の御本仏・日蓮大聖人の仏界の生命が顕されています。その真髄が南無妙法蓮華経です。

私たちは、御本尊を信じて自行化他にわたる唱題に励む時に、自身の生命の仏界を現すことができるのです。

仏界の生命と信心との関係について大聖人は、「観心本尊抄」で「末代の凡夫、出生して法華経を信ずるは、人界に仏界を具足するが故なり」(新127・全241)と仰せです。万人が成仏できることを説く法華経を信ずることができるのは、人間としての自分の生命の中に仏界が具わっているからにほかなりません。

仏界の境涯を、戸田先生は現代的に「絶対的幸福」と表現しました。それは「生きていること自体が幸福である」という境涯です。

日蓮大聖人は、仏界の境涯を、「師子王」とも表現されています。どのような状況下でも師子王のように恐れることのない、安穏の境涯であるといえます。

映像でわかりやすく解説しています。