十界論(3)

(声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界)

(7)声聞界(しょうもんかい)、(8)縁覚界(えんがくかい)

声聞界と縁覚界の二つは、仏教のなかでも小乗教の修行で得られる境涯とされ、この声聞界と縁覚界をまとめて「二乗」と呼びます。

声聞界とは、仏の教えを聞いて部分的な覚りを獲得した境涯をいいます。

これに対して、縁覚界は、さまざまなものごとを縁として、独力で仏法の部分的な覚りを得た境涯です。独覚ともいいます。

二乗の部分的な覚りとは「無常」を覚ることです。無常とは万物が時間とともに変化・生滅することをいいます。自分と世界を客観視し、世間すなわち現実世界にあるものは、すべて縁によって生じ時とともに変化・消滅するという真理を自覚し、無常のものに執着する心を乗り越えていくのが、二乗の境涯です。

私たちも日々の生活の中で、自分自身を含めて万物が無常の存在であることを強く感ずることがあります。

ゆえに大聖人は「世間の無常は眼前に有り。あに、人界に二乗界無からんや」(241㌻)と言われ、人界に二乗界が具わっているとされたのです。

二乗の境涯を目指す人々は、無常のものに執着する煩悩こそ苦しみの原因であるとして、煩悩を滅しようとしました。しかし、そのために自分自身の心身のすべてを消滅させるという誤った道(灰身滅智といわれる)に入ってしまいます。

二乗が得た覚りは、仏の覚りから見れば、あくまでも部分的なものであり、完全なものではありません。しかし、二乗はその低い覚りに安住し、仏の真実の覚りを求めようとしません。師匠である仏の境涯の偉大さは認めていても、自分たちはそこまで到達できるとは考えず、自らの低い覚りにとどまってしまうのです。

また、二乗は自らの覚りのみにとらわれ、他人を救おうとしないエゴイズムに陥っています。このように、「自分中心」の心があるところに二乗の限界があります。

(9)菩薩界(ぼさつかい)

菩薩とは、仏の覚りを得ようとして不断の努力をする衆生という意味です。二乗が仏を師匠としていても、自分たちは仏の境涯には至れないとしていたのに対し、菩薩は、師匠である仏の境涯に到達しようと目指していきます。

また、仏の教えを人々に伝え広めて人々を救済しようとします。

すなわち、菩薩の境涯の特徴は、仏界という最高の境涯を求めていく「求道」とともに、自らが仏道修行の途上で得た利益を、他者に対しても分かち与えていく「利他」の実践があることです。

現実の世間のなかで、人々の苦しみと悲しみに同苦し、抜苦与楽(苦を抜き、楽を与える)の実践をして、自他共の幸福を願うのが菩薩の心です。

二乗が「自分中心」の心にとらわれて低い覚りに安住していたのに対して、菩薩界は「人のため」「法のため」という使命感をもち、行動していく境涯です。

この菩薩界の境涯の根本は「慈悲」です。大聖人は、「観心本尊抄」で「無顧の悪人もなお妻子を慈愛す。菩薩界の一分なり」(241㌻)と仰せです。他人を顧みることのない悪人ですら自分の妻子を慈愛するように、生命には本来、他者を慈しむ心が具わっています。この慈悲の心を万人に向け、生き方の根本にすえるのが菩薩界です。

(10)仏界(ぶっかい)

仏界は、仏が体現した尊極の境涯です。

仏(仏陀)とは覚者の意で、宇宙と生命を貫く根源の法である妙法に目覚めた人のことです。具体的にはインドで生まれた釈尊(釈迦仏)などです。また、さまざまな経典に阿弥陀仏などの種々の仏が説かれていますが、これは仏の境涯の素晴らしさを一面から譬喩的に示した架空の仏です。

日蓮大聖人は、末法の一切衆生を救うために、一個の人間として御自身の生命に仏界という尊極な境涯を現し、一切衆生の成仏の道を確立された末法の御本仏です。

仏界とは、自身の生命の根源が妙法であると覚知することによって開かれる、広大で福徳豊かな境涯です。この境涯を開いた仏は、無上の慈悲と智慧を体現し、その力で一切衆生に自分と等しい仏界の境涯を得させるために戦い続けます。

仏界は、私たちの生命に本来、具わっています。ただ、それを悩み多き現実生活の中で現すことは難しいので、大聖人は人々が仏界の生命を現していくための方途として御本尊を顕されました。

御本尊に末法の御本仏・日蓮大聖人の仏界の御生命が顕されているのです。その真髄が南無妙法蓮華経です。

私たちは御本尊を信じて自行化他にわたる唱題に励む時に、自身の生命の仏界を現すことができるのです。

仏界の生命と信心との深い関係について大聖人は、「観心本尊抄」で「末代の凡夫、出生して法華経を信ずるは、人界に仏界を具足する故なり」(241㌻)と言われています。法華経は万人が成仏できることを説く教えですが、その法華経を信ずることができるのは、人間としての自分の生命の中に本来、仏界が具わっているからです。

また、この大聖人の仰せを受けて日寛上人は「法華経を信ずる心強きを名づけて仏界と為す」と述べています。

この法華経とは末法の法華経である南無妙法蓮華経の御本尊のことで、御本尊を信じて生き抜く「強い信心」そのものが仏界にほかならないということです。

この仏界の境涯を現代的に言うならば、何ものにも侵されることのない「絶対的な幸福境涯」といえるでしょう。第2代会長戸田城聖先生は、信心によって得られるこの境涯について「生きていること自体が幸福であるという境涯」と述べています。

また仏界の境涯は、しばしば師子王に譬えられます。どのような状況下でも師子王のように恐れることのない、安穏の境涯であるといえます。

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